新制高校が発足する約半年前の昭和二十二年九月十八日に浜松第二中学校では浜二中父母教師の会(PTA)の結成会が行われた。この会では、学校に保護者会があるのにPTAをなぜ結成するのかという質問があったが、学校は「連合軍の指令にもあり全国的にも結成の気運が強くなつておる。連合軍の指令とはいへ強制的ではない本人の意志により入会するものである。」(『二中新聞』第7号)と答えている。高校発足後の昭和二十三年十月、『浜松二高新聞』第3号はPTAについての記事を掲載したが、その見出しに「本来の使命は校外指導 PTAは後援会の延長に非ず」と記している。誠心高校では昭和二十三年四月二十七日にPTAの結成大会兼総会を開催、保護者と先生が手を取り合って生徒の指導に当たることになった。このため、三十二の地区別会と、経営部・教育部・体育部・厚生部・施設部・保健衛生部など八つの部が設けられた。浜松商業高校のPTAは昭和二十三年七月に発足、西遠女子学園高校では戦前の父兄会がPTAとなった。浜松北高校では高校発足と同時にPTAは出来たようだが、二年後の昭和二十五年五月になってこれまでの保護者会をPTAとし、地区会や幾つかの専門委員会を設けて本格的な活動を開始した。このように高校のPTAの発足時期は学校の事情によってその差が大きかった。このようななか、市内十一の公私立高校のPTAは昭和二十四年六月に浜松市内高校PTA連合会を結成、各PTAが協力して教育の徹底を図ることや、生徒の生活補導に力を入れていくことなどを決めた。この背景には生徒が万引きや喫煙をするなど、いわゆる不良化が進行していたことが挙げられる。