[野球の流行]

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【野球 北部中学校 笠井町野球連盟】
 戦争のために禁止されていた野球が浜松で復活したのはいつのことであろうか。『浜松北高百年史』によれば、昭和二十一年三月三十一日に浜松第一中学校の運動場でどこかの団体が許可なく野球をやっていたという。四月には労働組合の野球試合が同校の運動場で行われたとの記録もある。注目すべきは、同校のクラブが五月に結成されたが、軟式野球は二十三チームで三百三十六人、硬式野球は三チームで百五名の入部があったという。なんと全校生徒の四割が野球を始めたのである。六月からは中等学校の対抗戦が始まった。また、県体育協会主催の中等学校軟式野球大会も始まった。さらに戦争で中断していた全国中等学校野球選手権大会の県予選も開催されることになった。これらを見るに浜松では昭和二十一年の早い時期から野球が始まったようだ。全国的にはこれよりやや早い昭和二十年十一月にプロ野球の東西対抗戦が数試合行われた。これには藤村・鶴岡・大下・別所などの選手が出場し、ファンを喜ばせた。同じ月に日本野球連盟ができ、昭和二十一年度から八チームによる試合が華々しく開催されることになった。これらの動きがいち早く浜松に及んだのである。中等学校に続いて、昭和二十二年四月に開校したばかりの新制中学校にも野球部が出来た。特に北部中学校では四月に野球部が出来てから猛練習を積み、一学期の間に中部・東部・西部の各中学校と学年別の試合を数多くしている。「来たれ、マウンドに立ちて君自らボールを投げあげてみよ、一個のボールが若き日の君に教える所のいかに大なるかを」の文が『北中タイムス』第一号の「野球部だより」に出ている。このような状況は郡部の中学校も同様であった。さらに、学校以外では神社や公園、空き地などがあれば小さな子どもたちまでも野球に興じる風景が各地で見られるようになり、野球は戦後に一大ブームを巻き起こした。笠井町では、笠井タイガースなど二十数チームができ、笠井町野球連盟の下、野球大会が開催された。昭和二十二年の浜松郵便局主催の逓信記念選抜軟式野球大会になんと八十六チームが参加して熱戦を繰り広げた。昭和二十二年五月二十三日の『静岡新聞』は「各地で野球大流行」の見出しの下、磐田では小学校一・二年生が毎日のように試合をしていること、磐田高女や見付高女が野球チームを編成したこと、浜松の逓信野球大会のことを報じている。