[水泳王国と古橋選手]

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【浜名湾游泳協会 古橋広之進】
 浜松は浜名湖や天竜川など水泳の練習に適した所があり、明治のころから水泳が盛んであった。大正五年に浜名湾游泳協会が設立され、大正九年の第七回オリンピック大会に浜松中学校出身の内田正練が出場した。昭和七年の第十回オリンピック大会には浜名湾游泳協会の選手が多数出場、中でも浜松中学校の宮崎康二は百メートル自由型でオリンピック新記録で優勝、八百メートルリレーもその一員として世界新記録を出した。この流れは戦後も続き、浜松一中・浜松二中・浜松農蚕の三中学校は特に水泳が盛んであった。このようななか、浜松二中を昭和二十年三月に卒業し、四月に日本大学に入った古橋広之進は食糧難の時代にもかかわらず懸命に練習を積み、昭和二十一年の夏にはわが国のトップスイマーに成長、九月に開かれた第一回社会人対学生水上競技大会で四百メートル自由形に戦後世界最高のタイムを出すまでになった。昭和二十二年八月に開かれた全日本選手権水上競技大会では四百メートル自由形で四分三十八秒四の世界新記録を樹立、日本新記録も多数出した。圧巻は昭和二十四年八月にロサンゼルスで行われた全米男子屋外水上選手権大会で四百・八百・千五百の自由形ですべて世界新記録で優勝、八百メートルリレーでもチームの一員として世界新記録を出して優勝した。古橋の名前は全世界に知れ渡り、「フジヤマのトビウオ」というニックネームが付けられた。古橋の活躍は新聞で大々的に報道され、また、ラジオもこれを放送、地元の雄踏町はもちろん浜松市民も熱狂的に応援した。地元には古橋選手の後援会も出来て、浜松入りをすると歓迎会が幾度も開かれた。敗戦とそれに続く連合軍の占領下、古橋選手の活躍は日本国民を熱狂させ、希望の光を与えてくれた。古橋と後にノーベル賞を受けた湯川博士は戦後最も早い時期に生まれた〝英雄”であった。