[白山神社と蒲神明宮の経済的基盤]

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【白山神社 蒲神明宮 農地改革 蒲神明宮】
 神社財政の例を、白山神社(高林)と蒲神明宮(神立町)についてうかがうことにする。
 前者の『高林・白山神社社殿復興五十周年記念誌』(平成十二年十二月十二日刊)の「白山神社略史」は氏子総代の手元に遺された会計報告を根拠に編集されたもので、ここには神社変革期の財政力、特にその広大な敷地運用益が示されている。昭和二十二年、農地改革の際に興誠商業学校敷地の権利を得た小作人は、権利放棄をし、神社へ移譲した。この広大な敷地が白山神社の財源となっている。昭和二十七年には浜松市へ市営住宅十七戸分の五百八十一坪を賃貸に出し、十年後には三千二百坪余の賃貸借の契約をしている。興誠学園とは昭和三十年に四百六十四坪の契約が同三十七年には七千四百十八坪に増大している。同二十八年の固定資産税額は一万百円であり、翌二十九年の基本財産は百六十二万三千四百八十円であり、同三十三年の土地賃貸料は四十七万五千一円である。会計報告の収支明細書は昭和三十二年・三十四年・三十六年・三十八年の例が判明する。三十八年の収入は二百十一万五千九百二十六円、支出は三十九万二百四十円である。
 次に蒲神明宮における経済的側面について見る。蒲神明宮の神社経済の変転状況については、比較すべき戦前の史料の探索を要することから、問題は今後に残されているが、鈴木伊平『蒲のふるさと』(昭和四十六年刊)には、明治七年五月書上の年間(明治五年)月締めの支出費金額の記事と、「昭和四十二年大祭費」の収支記事とがある。また、上村家文書の「蒲神明宮関係書綴」には、「二十四年蒲神明宮大祭費収支報告書」がある(『新編史料編五』 四宗教 史料27)。ここでは右の「蒲神明宮関係書綴」から農地改革の対象になった一件を取り上げる(『新編史料編五』 四宗教 史料15「蒲神明宮への農地買収令書」)。
 昭和二十三年十二月二日付の蒲神明宮の名儀に対する買収令書は静岡県知事の名において農地委員会が執行したもので、この買収令書の「買収土地物件の表示及び所有者」の箇所には「別添の通り」とある。上村家文書の同綴には「別添」の記録と農地面積は不明である。その対価五百八十三円八十四銭、報奨金百六十二円八十六銭、合計七百四十六円七十銭が蒲神明宮の総代上村貫一あてに発行されている。
 右の農地改革の対象になった蒲神明宮の経済的基盤を示す史料として、昭和二十三年度の「収入支出予算書」が上村家文書に残されている。収支を摘記すると、「収入之部」では、「社入金二万五千七百円也」がある。その内訳の一部を示すと、「小作料、一〇〇」、「氏子納金、一〇、〇〇〇、(旧蒲町内八〇〇戸、一戸十円平均、他字四〇〇戸、一戸五円平均)」とある。そのほかに「崇敬者納金」、「賽銭」、「特別寄付金、一五、〇〇〇」、これは「屋根修理ノ為特別寄付金」である。また、「雑収入二千参百八十五円也」としては、「社務所使用料」(「区画整理」、「浜名支部」、「其他」)などが掲げられている。
 蒲神明宮の神域の広さを印象付けるのは、「境内地貸付料」、「境内地使用料」の収入であろう。これに、「預金利子」と「先年度繰越金」を合わせたのが、「計金三万参千〇八拾五円也」である。
 この収入に対して、「支出之部」としては、例祭祭典費・大祭祭典費・諸礼を含む「祭典費五千五百円也」がある。「社務所費二万〇六十五円也」には、俸給・賞与・営繕費・火災保険料・電灯料・旅費等が含まれ、予備費を計上した支出予算額が「計金参万参千〇八十五円也」である。
 右は昭和二十三年度(昭和二十三年七月より二十四年六月まで)の収支予算書である。神社庁の会計年度の出納閉鎖は六月(青島清三郎「静岡県神社庁設立四十年の記録」、『静岡県神社庁四十年誌』)であるので、蒲神明宮もこれに倣う訳で、予算作成の時期は昭和二十三年六月以前であろう。つまり、農地改革に基づく農地買収令書が発行された同二十三年十二月二日以前の状態を示す予算書ということになろう。この「対価」が予算書に盛り込まれるのは、同二十四年度ということになる。
 この予算書の収入の内で、比較考量する資料の不足故に、この小作料「一〇〇」円に相当する小作面積や、農地買収令書に記された「対価五八三円八四銭」に相当する面積はどの程度のものか不明である。
 この収支予算書を一見して注目されるのは、氏子納金が多額であることである。これは蒲神明宮が浜松市域における古い歴史を誇る神明社であることを示している。何しろ氏子の居住地区は、昭和二十四年の時点で旧浜松市東部地区の十八町(区)にも及んでいた。「二十四年蒲神明宮大祭費収支報告書」(『新編史料編五』四宗教 史料27)に見える十八町(区)と、篤志家の寄付金を合計すると、一万九千三百十三円七十五銭の収入を計上し、支出は合計一万八千五百三十六円五十銭であった。差引金七百七十七円二十五銭は繰越金としているのである。右の昭和二十三年度予算書と比較しても、一年後の大祭のみの収支金額は、前年度の年間予算の約六割に相当し、しかも、十八町(区)から集金した「維持費」の合計金額は一万二千六百四十円である。右の前年度予算書の「氏子納金」一万円を二割余も超える金額を集めているのである。なお、『蒲のふるさと』所収の「昭和四十二年大祭費」の収支金額は二十一万八千百十五円、そのうち、「特(ママ)志奉納金」は一万八千三百円と記されている。
 次に雑収入について見ると、社務所使用料と境内地の貸付料・使用料などという収入項目がある。これから見ると蒲神明宮が所有する土地の地目は、農地よりも境内地の広さに特徴があろうか。社務所は地区の集会所の役割を担い、しかもその利用目的からすると、戦前からの行政課題である市街地の区画整理事業が継続されていたのではないかと推測されるし、また、静岡県神社庁浜名支部の集会所としての機能も果たしていたものであろうか。また、賃貸料の観点から見れば、これらはまさに自立への方途、多角経営への契機とも成り得たであろう。