[神道指令と神社の諸問題]

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【五社神社 諏訪神社 氏子総代 公職追放】
 日中戦争から太平洋戦争に拡大した時代において、五社神社・諏訪神社は国家神道下の浜松の総社として位置付けられていた。両社は浜松市民全員を氏子と見なし、その祭典費用は神社予算上に位置付けられ、各町内会に割り当てられた賦課金が重要な役割を担っていた。
 蒲神明宮の場合は、中世以来の伝統を担いながら、氏子は「蒲二十四郷四十二ケ村」という浜松市域東部の町村であり、先に言及した蒲神明宮の年間予算書には、依然として各町(区)の氏子の納金が計上されていた。
 五社神社・諏訪神社の場合は徳川秀忠誕生における産土神を祭ったことに由来する格式を誇っていた。明治二十年代以降において、浜松が産業都市へと変貌する過程で人口増加に伴う新住民の帰属意識は、五社・諏訪神社に収斂(しゅうれん)していく(湯浅隆「二 五社神社、諏訪神社の成立過程」、斉藤新「四 近代の五社神社と諏訪神社」『調査研究報告書 五社神社・諏訪神社 社殿等修理関係資料本文篇』 東京国立博物館 参照)。国家神道を背景にしてよく人心を組織化してきたことになる。それ故に浜松市民が総氏子とみなされたものであろう。国家神道下の両社は浜松市長主催の祭儀を主宰してきた経緯がある。しかしながら今や、両社では蒲神明宮と違い、神道指令を遵守して、目前に控えた昭和二十一年五月の例大祭をいかに執行するか、それが問題であった。
 その対策を示す文章が、総社五社神社・諏訪神社宮司吉田伊頭麿と「総代一同」の名儀で発給した、昭和二十一年五月一日付の書状形式の布告である(『新編史料編五』 四宗教 史料33)。
 この文章は「前略」で始まり、過去における国家神道下での神社予算の仕組みを総括し、今後の復興計画の進捗に期待する文章全七カ条である(謄写版印刷)。この文章の宛所相当の位置には、人名や職名の記事がない。神道指令直後の時期にあって、神社運営の組織や予算に関する援助後援を依頼する内容であるから、これに抵触する可能性に配慮したのかもしれない。また、宮司名儀は謄写版刷りであるが、「総代一同」の字句は墨書にて追加している書式も同じ配慮から出たものか。文意からすればこの宛所は「氏子たる全市民」、「本市連合町内会長」などにあてたものと思われる。
 右の全七カ条で述べられた問題点は、五社神社・諏訪神社特有の問題点ではない。新憲法の三原則(主権在民・平和主義・基本的人権の尊重)は、旧憲法を克服したものであり、信仰・思想・言論等の自由に根差す基本的人権の尊重を前提にすれば、右の全七カ条が言及するところには、単なる神社財政・祭礼協か賛等の問題点に矮小(わいしょう)化でき難いものがある。他方、市民の日常生活を支えてきた神仏敬仰という、おのずからなる発露を否定し去ることは出来ない。従って市民の信仰心の受け入れ方を求めて、公権力を介在させずに、神社自らがいかに市民に働き掛けるか、に帰着する。それが戦後の出発点である。
 五社神社・諏訪神社の場合も、また多くの神社においても、神社予算の件、宗教法人の件、氏子会組織の件、戦後復興問題としての神社建築の件、これこそ神社が地域社会に存立するための最初の課題である。それにいかに対処したのか、右のうちの一、二について見ておきたい。
 右の五社神社・諏訪神社の宮司吉田伊頭麿の布告文の第七条に見える「神社内外の復興計画」に関連して、静岡県神社庁浜松支部の動向を見ると、神社が直面している諸問題が述べられている。
 「浜松支部総会要項」(上村家文書「蒲神明宮関係書綴」)によれば、その総会開催時点は、次に見る項目1・2から見て昭和二十五年度当初であろう。また、項目6でいう「学徒奨学金申請七月末日迄 会場にて説明する」「当庁表彰規定による内申五月末日迄」とか、項目7でいう「宗教法人台帳作成 七月末日迄特に厳守」という指示から見ると、昭和二十五年四月ないし五月ごろの総会日程が推定される。他方、「浜松市連合氏子会趣旨」(『新編史料編五』四宗教史料16)の第二十一条に「会計年度は七月一日に始まり翌年六月三十日に終る」とあり、出納閉鎖が六月という点からも、右の総会開催日の推定が裏付けられるであろう。
 前者の「浜松支部総会要項」は一つ書きの書式で、これを内容別に概略整理すれば次のようになる。
 
 1、昭和二十四年度決算報告と対策費承認の件。2、昭和二十五年度予算の審議決定の件。3、伊勢神宮式年祭の件。4、神社幣帛料の件。5、財産・税務関係の案件(土地財産の処分、譲与後の境内地一件、資産再評価税)。6、人事案件(神職資格、当庁表彰者の内申、学徒奨学金・学芸奨励金の申請、教化補助金申請)。7、宗教法人関係(台帳作成・書類提出)。8、外郭団体育成強化(神道青年会・敬神婦人会、児童教化施設の名簿提出、特殊神事・天然記念物・国宝・史蹟記念などの神社に関する文化財調査、『内山真龍の研究』出版補助)。9、氏子関係(氏子崇敬者数提出、「追放者の行動限界に関する件」)。10、神宮大麻・暦予約申込の件。11、本庁出版物の案内・静岡県神社庁職員録の神職頒布。
 
 右のうち、書類作成要領を細かに指示する記事が多いのは、書類の提出先(文部省宗務課・県文化課・当支部)との関連において、戦後の宗教行政の大転換を表しているものであろう。それ故に書類提出に当たっては、「必ず支部を経由すること 支部長は必ず副申又は意見書を添付する事」というように、各種名簿作成、例祭日・神社調書なども含めて、命令系統、事務手続きの一元化を確認しているのである。
 この「浜松支部総会要項」では、案件の細部にわたる事前説明は何も書いていない。「会場にて説明する」という文言が記されているのみで、この総会議事録は未見である。
 それでも、この時点での興味深い時代的証言の一つは、氏子総代にかかわる文言であろう。すなわち右の概要中の9で記したが、「追放者の行動限界に関する件、特に氏子総代 会場にて説明する」とある点である。この「追放者」とは、昭和二十一年一月、GHQ指令によって政・官・財・言論界等の公職から、戦争協力者・職業軍人・国家主義者等を排除するという公職追放の対象者を指すものであろう。
 おそらく公職追放者は地域の有力者としての地位を担っていたから、従来は氏子総代に就任していたことであろう。神道指令に続く公職追放の指令によって、総代就任は不可能になっていたわけである。
 その後昭和二十二年三月以後、同二十四年までの間に、追放処分の再審査があり、翌二十五年十月には職業軍人の公職追放解除が始まるのである。この総会開催時点は先に記したように断定できないが、昭和二十五年の四月ごろか五月初旬ごろの開催と推定すると、「追放者の行動限界に関する件、特に氏子総代 会場にて説明する」という表現には、追放処分の再審査の道が開かれたという事態を踏まえて、浜松支部に属する神社総代として、公職追放者が氏子総代たり得ることを期待しているように見える。