先には浜松市域の神社を糾合した氏子総代会や連合氏子会の存立を示す規約等を見たが、ここでは賀茂神社(東伊場町)において発足をみた氏子会について述べることにする。これをもって浜松支部に所属する七十五社もこのような氏子会の成立があったものと類推されよう。
賀茂神社宮司岡部嚴夫は昭和二十四年六月の氏子会の発足を、翌年七月十五日付で刊行した東伊場町青年会雑誌『まなび』に掲載した(『新編史料編五』 四宗教 史料34)。ここでまず強調するのは賀茂神社氏子会は、氏子による精神的団体であり、賀茂神社の経営母体ということである。次に国家神道の歴史を総括し、「この団体は誰から強制されたのでもなく、氏子相互の自主的合意によって下からもり上って出来た〝民主的団体〟であるのです」という。
事業としては、氏子会「総意の発露」としての社頭講演会・祭礼時の甘酒振舞・社殿修理・社務所復興を実行している。賀茂神社は戦禍を免れていたものの、社殿修理は課題でもあった。
氏子会の組織は「一般、青年、婦人部」の三部を各種委員会委員の選出母体としている。神社委員や土地管理委員会がそれである。業務上から分ける委員会は、庶務・教科(ママ)・整備・祭儀・神賑・事業の「六班」である。その目的は「日本再建のため、民主々義確立のため」であり、氏子会の存立意義は「氏子会こそ神社と氏子とを密接につないでくれる私達相互の会」であるとしている。つまり「神社を早く私達氏子の心のオアシスとして」の場所にしたいと熱望する。右の文章では「早く」という強い語調が戦後の混乱した社会生活を踏まえたものであろうことは推測できよう。そして宮司岡部厳夫は賀茂真淵の子孫らしく、賀茂神社がオアシスであった歴史を指摘して、「伊場遺跡の住人達の頃から又賀茂神社が建てられてから九七五年の間祖先がそうして来たように」と文章を結んでいる。
図2-29 戦災を免れた賀茂神社