【戦没者慰霊 遺族会 忠魂碑】
戦争被害者の救済問題は、まず対外的には日本政府が植民地とした国家・国民への謝罪と補償をするという重要な課題があり、国内政治においてもそれは重要な政治課題である。特に戦没者の血縁者にとっては理不尽な思いは忘却できないであろう。その思いから慰霊の祭祀を行うべく遺族会結成を発願するに至った。遺族にとっては本来得べかりし家族の安全を政治的・経済的に保証すること、それを政府に要求するのは当然の行為である。この結成発議は、昭和二十一年七月十一日付で浜松市遺族会結成準備委員中村勝五郎から発信された(『新編史料編五』 四宗教 史料9)。靖国神社・県護国神社の祭祀には、「政府は勿論府県市町村でも一切之に関係することが出来なくなったので」、全国的に遺族会を結成し、「遺族の手で靖国神社、県護国神社を奉賛して祭祀」を執行する。その結成単位は各町内会・連合会・地区ごとに支部を結成するというものである。
他方、戦没者を顕彰する行為についてもGHQの詳細な指示がある。昭和二十一年八月十六日付で終戦連絡中央事務局総裁から同名古屋事務局長へあてた「公葬戦没者取扱ひ、忠霊塔等に関する件」(飯田小学校蔵「連合軍関係指令綴」、『新編史料編五』 四宗教 史料10)が、昭和二十一年九月四日付で終戦連絡名古屋事務局長から静岡県知事あてに届いた。
この通牒には「政教分離の原則を徹底する建前から、今後国家機関及び公共団体が葬儀其の他宗教的行事を行ふ事は一切廃止する」というもので、「葬儀その他の祭礼に対して公の機関の関与し得る限界は左記により判断されたい」とした。特に遺族会の祭祀行為との関連において戦没将兵の葬儀等が軍国主義賛美に陥りやすいと指摘し、公の機関の主催・後援を厳禁した。
ところが昭和二十六年九月十日付に至って、戦没者の葬祭に関する指令の一部が変更された。その理由は「民主々義諸制度の確立による国内情勢の推移及び多数遺族の心情にかんがみ、今後は、一般戦争犠牲者と合して葬祭などが行われる場合をも含み、左記の事項は、これを行ってもさしつかえないことに定められましたので、命によって通達します」と説明している(飯田小学校蔵「連合軍関係指令綴」)。そこでの前提は信教の自由を尊重し、軍国主義的及び極端な国家主義的思想の宣伝鼓吹や政治的運動に利用されないことである。その上で戦没者と一般戦争犠牲者との合同葬祭を許可し、四項目にわたる指示がある。
一、個人又は民間団体が慰霊祭・葬儀などを行うに際し、公務員等の列席や香華料を贈呈すること
二、公務員等が遺族を弔問すること
三、遺骨の伝達及び出迎えに際して、一般公衆の自由意思からの参列とし、学生等の強制的参列は禁止
四、遺族不明の遺骨の埋葬等については、地方公共団体による納骨施設の建造や埋葬委託料の支出
右が戦没者・一般戦争犠牲者の合同葬祭の緩和条件である。地方公共団体関与の限界が拡大されている。
なお、昭和二十六年九月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、四十八カ国とサンフランシスコ平和条約が調印された。翌年四月二十八日、条約が発効して七カ年に及んだ占領は終結し、日本は独立国家としての主権を回復した。この情勢下で戦死者の霊を慰めるために忠魂碑の建立が実行されている(「佐浜町自治会沿革誌」、『新編史料編五』 四宗教 史料23)。積志村の場合は積志中学校の敷地内に建立された。