[鴨江寺の罹災]

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【鴨江寺 建部快運】
 太平洋戦争の最終期、昭和二十年(一九四五)六月十八日の空襲で、市役所を中心に半径三キロ内に位置した右の諸寺院は全壊全焼した。春秋彼岸会の時、浜松近在からの人々の参詣でにぎわう鴨江寺は、本堂・客殿・庫裏等の伽藍が「敵米ノ焼夷爆弾ノ落下」で全焼した。昭和二十年八月二十八日付で、住職建部快運は静岡県知事あてに境内建物滅失届を提出した。もっとも、本尊や寺宝については、「御本尊本体ノミ防空壕中ニテ安泰、尚後醍醐天皇綸旨、足利、今川、豊臣、徳川各家ノ判物ハ安泰ナリ」と報告した。
 鴨江寺の復興計画は早くに着手された。その当初の決意を、「尚本尊仮奉安所ト事務所ハ九月中ニ建設ノ予定ナリ」と記し、鴨江寺が直面している困難な状況を次のように述べた。「全市殆ド灰燼トナリタル為メ仮小屋ヲモ当分建設シ難シ、尚檀家八十戸全焼シ、三十四戸防空壕居住者アルノミニテ全部地方ヘ離散シ法務当分殆ドナシ、尚又敵機毎日来襲スルヲ以テ本尊観音菩薩ヘノ参詣者モ皆無ナリ、次ニ当寺経営基本財タル地料モ地上物件全焼セルヲ以テ収入皆無ナリ」(昭和二十年七月二十三日付、真言宗々務長あて「戦災寺院災害届」、『鴨江寺復興史』所収)。
 これらによれば、五月二十四日・六月十八日の空襲という波状的な空襲の被害を被ったのである。