[鴨江寺の復興]

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【鴨江洋裁学園】
 戦後になって建部快運の活躍は目覚ましい。その第一は伽藍再建活動である。その著『鴨江寺復興史』(『新編史料編五』 四宗教 史料24)には詳細な記事があるが、疎開先の気賀長楽寺から戻った建部快運は仮居宅のために、兼務する中沢町常楽寺の物入れ小屋を移築する(昭和二十年九月)ことから始まって、旧弁天堂を本堂跡地に移設して御本尊の仮奉安所となし(同年九月十八日)、昭和二十二年六月には仮庫裏を建て、同年九月には彼岸会のための水向地蔵堂を再建した。昭和二十一年春季彼岸会に、観音堂の再建を参詣人に訴え協力を依頼、後に鎌田医王寺薬師堂を譲り受けて観音堂を再建することにし、昭和二十二年十二月末にはほぼ竣工した。その費用は鴨江観音百万人勧縁帳による浄財である。翌二十三年、ついに本堂(観音堂)で春季彼岸会を執行し、同二十四年には御本尊の入仏式が執行された。また、同二十年五月に被災全焼した鴨江洋裁学園を、翌二十一年六月に再建し開校した。戦後の洋裁熱の波に乗り、後の笹田学園をはじめ多数の洋裁学校が開かれ、浜松市内での社会的影響力を発揮することになる。
 第二に教化活動が注目される。既述のように昭和二十年九月二十一日、浜松市と浜松市仏教会との合同主催で、「浜松市戦災殉難者追悼大法会」を鴨江寺仮本堂で執行した。他方、同二十年九月二十三日付の『静岡新聞』には「賑ふ鴨江観音」として鴨江寺の秋季彼岸会復活が報道された。この期間中、特別御開帳もあった。「焦土と化した境内沿道は従来の様に見世物小屋、露店商人の数は尠なく、幾分寂寞の感はあるが、それでも戦没将兵の家族、空爆犠牲者の一門がそれぞれの霊の冥福を祈るために参詣し、遠近よりの人出は近来にない程であつた」とある。建部快運がいう「我郷土の亡霊得脱の道場」にふさわしい景況と言えよう。