[諸寺の復興]

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【幼稚園 寺院開放 西来院 正福寺】
 先に見た罹災寺院を含めて、昭和二十年代前半の市内寺院の復興状況を見ると、同二十一年には富塚町の臨済宗法林寺は罹災を免れたこともあって梵鐘の響きが再び聞かれた。しかし、農地改革により年貢米九十六俵を収めた土地を手放し、その欠を補うべく寺内で納豆を醸成し、同二十五年には位牌堂を落成させている。
 右のほかに寺院復興再建策の一環として、境内を利用した幼稚園・保育園の経営例がある。戦災の有無を別にして、(昭和五十二年刊)例えば、『静岡県私幼の歩み』に登録する寺院名と設立・認可年次を挙げると、昭和二十一年には赤門寺(浜名郡新津村)、同二十二年には善信寺(助信町)・寿量院(向宿町)・大円寺(浜名郡入野村)、同二十三年には光雲寺(浜名郡篠原村)、同二十四年には普済寺(広沢町)・宗源院(蜆塚町)・興福寺(浜名郡篠原村)・本光寺(浜名郡河輪村)・玉伝寺(早出町)、同二十五年には鴨江寺(鴨江町)・法林寺(成子町)・光雲寺(東伊場町)、同二十六年には陽報寺(入野町)、同二十九年には頭陀寺(頭陀寺町)・常楽寺(中沢町)等が挙げられる。但し、地名は設立当初の所在地で、その後に所在地移転や名称変更、あるいは廃止された場合がある。
 戦後の寺院開放の例では、子供会を組織した広厳寺(船越町、めぐみ会)や長福寺(恒武町、恒武明朗子供会)があり、西来院(広沢町)では再建された本堂が文化施設機能も有していた。市の中心部という地の利を生かした臨済宗方広寺派正福寺(高町)は、利用頻度が高いことで知られ、市民は親しみを込めて高町の半僧坊と呼ぶ。同寺は明治初年のころには天竜川に臨む老間村にあったが、檀家数もわずかで寺院経営もままならず、市中に移り、奥山半僧坊大権現の別院と称し、寺院管理は方広寺が執務してきた。戦後になって廃墟同然の寺に後藤慧真が着任した。師は壊滅した境内の焼け跡を整理し、農作物栽培から始めて寺院を徐々に回復させ、教化活動の拠点を確立した。その一例が寺院開放である。座禅会を提唱し、高校・大学生の合宿所となった。蜆塚遺跡調査団の宿所でもあった。また年中行事として定着したのは節分豆まきや盆踊り大会の開催である(『遠州新聞』、昭和三十四年連載「お寺さん縁起帳」)。