【松本美実 賀川豊彦 遠州教会 松本美実 長谷川保 日本福音ルーテル浜松教会】
昭和二十二年十一月八日、西遠地方事務所長名儀で市町村長あてに、「戦争中本国へ帰還していて終戦後日本へ布教に来た宣教師(米・仏国人等)の数並に氏名」の調査依頼があった。かつて昭和十六年以後、スパイ視されて外国人神父や宣教師が帰国を余儀なくされていたことに起因しよう(中ノ町村役場文書「社寺関係綴」、『新編史料編五』 四宗教 史料12)。これは行政側の新事態への動きを示す一つである。
浜松におけるキリスト教諸派の布教活動のうち、特に戦前の昭和四年四月に遠州教会に着任していた松本美実牧師は、実に昭和二十年八月下旬にして、焼け野原となった松菱百貨店の前で、早くも説教の第一声を放ち宗教活動を始めている。また、戦前にたびたび浜松で布教活動を行った賀川豊彦も伝道会を浜松で開始した。また、戦前から布教活動をしていたキリスト教緒派の教会や聖堂はほとんどすべて戦災に遭ったので、それぞれの信者の家庭を拠点にして布教活動がなされていたし、伝道形式も戦前以来の農村伝道が復活し、巡回布教が行われている。
松本牧師らによる教会堂建築について見ると、戦災で焼失した紺屋町の正田内科医院の一部が教会堂の建築地となり、その名残の蘇鉄(そてつ)の前栽がある地に、昭和二十四年三月十三日、新しい教会堂の献堂式が執行された(『新編史料編五』口絵 43)。これより前、昭和二十三年八月には名称を遠州教会と改めている。高い塔を有す教会堂の設計者は栗原勝、敷地は百六十坪、土地買収費、建築費等の総額は百八十七万円という(松本美実著『私の見てきた遠州教会の歩み』昭和五十一年刊)。
この松本美実牧師と共に、遠州教会の信者として社会的実践活動を目指す長谷川保をキーワードとして、戦前戦後の歴史的展開を述べた、荒井芳廣・山中弘共著「キリスト教的共同体の行方」(田丸徳善編『続都市社会の宗教』所収)は重要な論考である。 長谷川保の目指した信仰と社会的実践に至る根源は、雑誌『福音と時代』(昭和二十四年二月、第四巻第二号)に掲載された「一つの実践・一つの展望」で明らかになる(『新編史料編五』 四宗教 史料19)。
これは編集者による「われわれは真の福音的教会の形成を切に祈り求めつつある。その本質的な在り方を具体的な課題を通してみさだめてゆく」という問題提起への回答である。すなわち、「プロテスタント教会の在り方」として、長谷川保は聖書解釈を僧侶に独占させず、万人が直接に聖書に向き合うという「万人祭司の実践活動」を主張し、キリスト教発生以来の歴史的展開を、浜松の地において生きようとしている。その社会的実践については、日本のプロテスタント教会の経済基盤を言及している。その舌鋒(ぜっぽう)は鋭い。ドイツのディアコネス運動(プロテスタント教会の一種の修道院で、訓練と試験に及第して病院・学校・保育所・家庭において奉仕生活をする組織体)についての知見を述べ、「斯るプロテスタンチズムに立つ修道院組織とその組織的奉仕活動」を切望している。
この総括と認識が長谷川保の出発点であり、青年期以来の信仰と聖隷保養農園を運営するという医療福祉活動の原点となる。信仰の深化とともに社会的人心救済の活動を支える経済的基盤を整えることに尽力し、そのための教育機関の設立と医療施設の建設に向かうのである。
他方、長谷川保が説いた「万人祭司の信仰」、「万人祭司の実践活動」を信者はどのように行っているのかを具体的に知ることが出来るのが、「病床の教会」という記事である(『聖笛』第九号、『新編史料編五』四宗教 史料21)。信仰心の外在化としての教会堂とそこでの祈りの意義は否定しないが、信仰と伝道とは不即不離であるという信念は、無教会主義者ばかりか病床においても教会は樹立されているという信念である。これが結核患者達の療養生活における信仰生活の指針となっていることが知れるのである。
なお、前掲の田丸徳善編著に述べられた浜松の新旧キリスト教の三類型のうち、第二型にいう戦後に進出した教派の日本福音ルーテル浜松教会は、昭和二十七年に伝道を開始し、翌二十八年には静岡大学工学部門前に教会堂が建設され献堂式が執行されている。