戦後の浜松カトリック教会の活動については、佐々木忠夫編著『浜松カトリック教会百年史』(昭和五十三年刊)の後半部分に、成子町の浜松教会に赴任した歴代神父を画期とした歴史的記述がある。
昭和二十一年五月、焦土と化した浜松に着任した谷口賢治神父は、初め拠るべき聖堂司祭館がなく、信者宅に拠って巡回布教を重ねていた。九月には三組町秋葉山宮司袴田家から住宅を譲られ移築した(平屋・建坪十七坪半)。他方、谷口神父はこの八月、浜松カトリック文化協会の創立をも準備していた。毎週二回の教会内の研究会、毎月一回の文化講演会の企画である。第一回は九月十九日、浜松銀行集会所で開催された。以後、昭和二十四年まで全二十七回の開催があり、佐々木忠夫は「谷口師は浜松教会史を大きく飾る文化事業を開始」したことをたたえている。哲学・神学・政治・歴史・医学・文学・音楽・美術など、多彩多数の講師が招かれた。例えば、田中耕太郎夫妻・小林珍雄・野村良雄・豊田耕児・原智恵子・長谷川路可・犬養道子・三浦岱栄等である。会場は市公会堂・商工会議所・東洋劇場・西遠女子学園・静岡大学工学部であり、二俣(磐田郡二俣町)・小松(浜名郡小野口村小松)等への出張講演も実行された。
図2-30 カマボコ型兵舎を転用した新聖堂(左奥)
昭和二十三年七月、旧聖堂跡に新聖堂(米軍のカマボコ型兵舎、Quonset hut)を建設した。内陣と信徒席・告解場に改装した畳敷きである。祭壇や壁画は池田路可・佐々木松次郎らの信徒により荘厳された。
この聖堂について、昭和二十四年四月二十日付の浜松西高新聞部による探訪記事がある(『新編史料編五』 四宗教 史料26)。谷口神父との一問一答記事で、なかんずくカトリシズムと共産主義思想という問題意識が、青年の精神生活の一端を垣間見せる記事となっている。右にみた文化講演会の演題にも、小林珍雄「宗教と共産主義」(昭和二十一年十月)をはじめとして、世界平和や国内外の政治情勢とカトリシズムを論じたものと思われる演題が多数ある。他方、先に見た昭和二十四年時点における長谷川保の信仰生活と経済的基盤に関する洞察にも共産主義批判がある(『新編史料編五』 四宗教 史料19)。大正十五年の日本楽器争議の時、スト回避を勧める教会の方針に抗し、共産党に接近し、後に離れた経験からくる総括であろうか。右の問題意識は「GHQの右旋回」(半藤一利著『昭和史戦後編』(講義録の活字化))と言われる騒然とした社会情勢の昭和二十四年を前提にして、浜松における宗教と政治について、その歴史的認識を深める契機となろう。
昭和二十四年、谷口神父の浜松離任後の歴代神父は布教活動の組織化に努めた。昭和二十九年のカトリック医師団結成(長尾静夫)、同三十年のガールスカウト第十四分団結成(金原孝)、同三十五年の青年会(会長・川島順三)再発足等である。また、同三十一年には聖堂建築と整備がなされた。旧静岡城内教会からの移築である。