[敗戦後の新宗教]

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【天理教 山名大教会 生長の家 霊友会 立正佼成会 創価学会】
 戦後の浜松市域における宗教について、概括的には『浜松市勢要覧』に各年度の統計記事として神社・宗派別寺院・神道系宗教団体・キリスト教のそれぞれの教団数が出ている。また、田丸徳善編『都市社会の宗教』の正編(昭和五十六年三月十四日刊、『正』と略記)と続編(昭和五十九年十二月十三日刊、『続』と略記)の二冊には、敗戦後の浜松の新宗教についての論考がある。この二冊の論著には、次のような多くの教団を対象として取り上げ、その成立・展開について述べている。詳細は同書を参看されたい。
 それらの教団とは、黒住教、天理教、出雲大社教浜松分院、稲荷講社、陰陽道本廳、幸福道教団・幸福の道教会、四大道浜松分院、真理実行会・真理実行の教、心霊界教団、大乗教浜松支部、念力大国神浜松神念会道場、自成会である。また、昭和六十年(一九八五)三月、村制七十周年記念として刊行された『可美村誌』(昭和六十年三月刊)には、新宗教として天理教、禊教、霊友会、生長の家、日蓮正宗創価学会、立正佼成会が記述されている。なお、『浜松市勢要覧』にあって、田丸徳善編の両書に言及されていない教団として、扶桑教がある。以下では浜松市域に比較的多くの信者を擁す天理教・生長の家・立正佼成会・創価学会を取り上げる。
 
表2-13 市内の神社・寺院と教会数
教会
扶桑教5禊教1金光教1天理教32陰陽道本廰2神道修成派1神習教1皇衡治教245天主教公教会日本基督教団2日本ハリスト正教会1世界心道教2治生教1治教生目教会本部1
7
神社
社数72
神職数17
寺院
真言宗9
浄土宗7
臨済宗30
曹洞宗25
真宗8
日蓮宗7
時宗2
黄檗宗2
法華宗1
本門仏立宗3
如来宗1
95
出典:『浜松市勢要覧』昭和24年版より作成

 天理教は、中山みき(寛政十年―明治二十年)が天保九年、長男の足痛治療のための加持祈祷を受けていたとき、憑依(ひょうい)状態となり、これを契機に嘉永六年ごろから布教活動を始めたものである。教義として「おふでさき」等を定め、「てをどり」という布教活動を展開した。
 『浜松市勢要覧』では、昭和二十三年度には三十、翌二十四年度には三十二の教会数が記されている。
 島薗進執筆「浜松市における天理教教会」・「天理教の都市布教」(『正』・『続』所収)によれば、天理教の教線伸張は拠点となる教会から枝分かれした分教会の誕生を意味し、そのような自立促進を勧める布教法式が天理教の特徴をなすものであることが指摘されている。浜松市域の教線伸張について見ると、昭和三十九年以降に教会数の伸張が著しく、同五十三年時点の状況は次の通りである。すなわち、天理教本部に直属する大教会は、同時に系統としてくくられ、その直属教会に市内各地の教会が属すのである。浜松市の教線は、山名系のほかに七つの系統が混在している。その山名系には山名大教会(袋井市)のほかに、静岡・益津・愛知の各大教会が属している。昭和五十三年、浜松には七十六の教会があり、山名系四十七、ほかの七系統は二十九の教会である。また、山名系四十三のうち、静岡二・益津一・愛知一であるから、浜松市域の天理教は圧倒的に山名系に属すことが判明する。
 右の論考には都市生活者の苦悩を聞き取る魅力的な布教師の誕生の事例研究、また、布教の自立性と競い合いという天理教の布教活動に内在する含蓄に富む分析がある。
 生長の家は昭和五年、谷口雅春によって創立された教団である。これ以前の宗教的回心と以後の宗教活動について、島田裕巳著『日本の10大新宗教』に従うと、次のごとくである。谷口は早稲田大学文学部を中退し、摂津紡績の労働者として働きながら、その英語力を駆使して紡績関係の記事を翻訳して原稿料を稼ぐ生活をしていたが、この間に心霊治療や催眠術に関心を持ち、大本教に入信。これに飽き足らず、無我の奉仕生活を主張する西田天香の一燈園の生活や思想に惹ひかれていく。大正十二年の末、宗教的な悟りを経験した。その根本的思想が実相論である。自らが実相そのものという悟りを活字化し、雑誌を創刊して宗教活動を開始した。これが雑誌『生長の家』である。これは「心の法則を研究し、その法則を実際生活に応用して、人生の幸福を支配するために実際運動を行ふ」という主張に基づいている。
 本来は哲学的で難解な実相論を病気治療という現世利益に結び付け、大衆性を獲得したという。戦時中には天皇信仰を強力に推進したので、戦後は超国家主義者として公職追放にあった。しかし、国際情勢の変転の中で、天皇崇拝、明治憲法復元、家族制度復活、紀元節復活等の主張により、戦後の民主主義社会に違和感を持つ保守層に支持されたが昭和六十年の谷口の死亡以後、昭和天皇の逝去やソ連崩壊があり、反共産主義活動を展開させてきた生長の家の存在理由も衰退したという。なお、『可美村誌』によれば、昭和五十年ごろから生長の家の購読者グループ(誌友会)が生まれたという。
 法華経に拠る先祖供養を強調した西田無学が後の霊友会となる基礎をつくった。大正七年、西田無学の没後、霊友会として教団を組織したのは小谷喜美である。やがてこの小谷喜美が説く法華経理解に反発して、霊友会を離れる者が続出した。そのうちの庭野日敬と長沼妙佼の二人は昭和十三年、新しく教団大日本立正交成会を創立した。昭和二十三年、会の名称を立正交成会として宗教法人として認証を受け、昭和三十五年、名称を立正佼成会に改称した。立正佼成会は高度経済成長の時代に急速に信者を増やした。地方から都市に移ってきた新住民や未組織の労働者が新宗教の信者になっている(前掲『日本の10大新宗教』)。
 立正佼成会の布教方法は霊友会以来の先祖供養と法座、さらに妙佼の霊感と日敬による姓名判断であった。昭和三十二年の妙佼の死を契機に、庭野日敬は教義の体系化を進め仏教の原点へ回帰を目指したという。
 『可美村誌』には、昭和二十年代には可美村東部地区に信者が増加していることを記録している。創価学会の沿革をみると、創立者の牧口常三郎は初め日蓮宗の一派日蓮正宗に入信し、その教学と実践論によって清浄な信仰を社会全体に広めようとするものであった。霊友会、立正佼成会、創価学会は三者ともに日蓮系、法華系の教団であるが、創価学会が前二者と違う点は、先祖供養に対する姿勢の違いにあると、島田裕巳は前掲書で指摘している。創価学会は先祖供養の重要性を否定し、祟りや霊的なものへの信仰は邪教、邪宗として否定した。戦時中も日蓮正宗の信仰を貫き、伊勢神宮の大麻さえ拒絶したために投獄獄死した。投獄されたのは牧口のほか、戸田城聖ら幹部で、戸田が釈放されたのは敗戦直前であった。戦後、組織再建に動いた戸田城聖が第二代会長に就任し、昭和二十一年組織の名称を創価教育学会から創価学会に改めた。また、積極的な布教活動(折伏)を展開した。昭和二十六年五月には七十五万世帯の折伏を掲げた。戸田が死亡した昭和三十三年には会員世帯百万を達成していた。戸田は御題目を唱えることで豊かな生活が送れると説き、法座形式ではなく座談会形式で多くの参加者を巻き込み、信仰にかかわる体験発表会という手法を執ることで、信仰心の確立を図った。これには高度経済成長下に都会に出た農家の次三男で先祖供養の経験が乏しい若い都市労働者たちの経済生活が背景にあるという。
 田丸徳善編の前掲書(『正』)に収められた西山茂執筆「仏教系新宗教の地方的展開―浜松創価学会の場合―」には、まさに、昭和二十七年五月、浜松に創価学会員(稲垣喜伝治)が初めて誕生した以降の、創価学会の伝播拡大の展開過程と今日的な問題についての分析が述べられている。
 なお、『可美村誌』では日蓮正宗創価学会と記しているが、平成二年、その創立以来外護してきた日蓮正宗と決別状態に陥り、現在は右に見たような変遷を経て創価学会と名乗っている。
 可美村への布教活動は昭和二十八年ごろより信者が漸増したことに現れている。ただし、信者が参詣する寺院は浜松東部の原島町の寿量寺や、後には西隣の小沢渡町に建立された正説寺であった。