[浜松信行社の人々]

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【大野木吉兵衛 報徳仕法 浜松信行社 福嶋豊策 遠江二葉会 袴田五平】
 遠州における幕末維新期の産業構造には報徳仕法が深くかかわり、その推進者は婚姻関係を通じて強固な人間関係を成立させていた。これらのことは大野木吉兵衛(大正十一年~平成十二年)の業績によって知ることが出来る(神谷昌志「大野木吉兵衛先生を悼む」『遠江』二十三号、平成十二年刊。平野正裕「浜松産業史研究の先駆 大野木吉兵衛氏の業績によせて」『遠江』二十四号、平成十三年刊)。
 ここでは浜松信行社についての論考(「地方産業史の一こま―浜松信行社の沿革―」『浜松短期大学研究論集』第十四号、昭和四十七年刊)を紹介する。すなわち、大野木吉兵衛の関心は「それが当地(浜松)の産業社会の発展にいかなる関連をもったか」であるが、この前提には報徳仕法があったのである。
 報徳仕法では誠心・勤労・分度・推譲を尊び、農村社会における倫理として機能した。遠州地方の木綿織布業は、明治十七年、政府払い下げの洋式紡績機一基を導入した二俣の遠州紡績会社の操業以後、一大変革を遂げた。報徳の指導者岡田良一郎と竹山謙三による国策即応の結果である。これを契機に報徳仕法の運用が農業から産業へ組み替えられた(平川祐弘「天ハ自ラ助クルモノヲ助ク ⑳」『学鐙』 99-11)。
 これ以後の報徳仕法は経済部門と道徳部門との二分法(dichotomy)で整理され(山田猪太郎『増訂報徳及結社の栞』、大正二年刊)、報徳仕法の預金・貸付の運用事業が産業支援へ向かうことになる。
 この推移を前提に浜松信行社が誕生する。この宗教講社の始祖守本恵観は京都にて日常倫理を心学道話として語り、念仏によって信仰心を確立するという大成心学を掲げた。医師福嶋豊策によって浜松に導入された(明治三十二年一月)。
 福嶋豊策は肥前国出身で、浜松病院長(明治十二年~二十年)を辞して後道に開業し、講演や印刷物施行に拠って衛生思想の啓蒙に尽力した。信仰心が厚く、山葉寅楠の創業を支援したことが著名である。浜松では明治二十九年に帝国製帽、同三十年に日本楽器製造、同三十三年に日本形染が設立され、同三十四年に遠江織物同業組合結成があって、近代商工都市に変貌する時期に、福嶋豊策の感化を受けた田町の商人・銀行家・資産家が多い。報徳仕法以来の中村藤吉・高林維兵衛・金原明善・平野又十郎・田中五郎七らである。
 大野木吉兵衛は浜松信行社の隆盛と展開をみる上で、特に福嶋豊策の後継者高村栄蔵と袴田五平について詳細に論じた。守本恵観の教えは「仏教の真理を日用生活の中に織り込」んだもので、二・七の付く月六回の月例集会では、体験実話、時事問題批判、和歌朗詠、仏典抜粋注解などを全員で行う。社会的活動としては遠江二葉会(明治四十二年発足、平松実・吉沢純道・飯尾哲爾の指導)、浄行会(善信寺で毎年八月に小学校六年生以上の参加)、女子仏名会(大正十四年、間宮英宗の発案)、出張講話がある。注目すべきは守本恵観以来、信行社では社員からの入会金・会費徴収は一切ない。まして出張・滞在費は自弁である。いわゆる新宗教における信者上納金のごときは全くないのある。
 その象徴が高村栄蔵らによる法人化計画、また、昭和六年、袴田五平の屋敷提供による会所建築である。前者は仏教思想の普及と恒久団体としての定着を図るもので、その認可は昭和八年三月である。これによって袴田五平は財団に助信町の土地千坪、基金三万円、公債二万円、家屋・庭木など一切を寄付した。
 袴田五平は両親苦心の「ヤマ五足袋」(紺無地・正紺縞)を受け継ぎ、明治三十年に織物製造販売、大正十二年に板屋町で綿製品の卸売業を営んで産を興し、織物工業、被服工業等の組合理事を務め、浜松信愛女学校設立などの教育事業にも尽力した人物である(鈴木惣作「弔辞」『袴田五平翁追悼録』、昭和十八年六月刊)。浜松信行社も現在に至るまで助信町を拠点として存続している。