【山田藤一 家庭研究会 講習会】
『道徳科学研究所紀要』の巻末には、「道徳科学研究所地方連絡事務所・同開発事務所、所在明細」がある。第壱号には地方連絡事務所として浜松の中津川清七の登録がある。第弐号では地方事務所の新設・改廃が記され、昭和二十二年七月時点で、全国の地方事務所の新設は十六件あった。その中に舞阪地方連絡事務所として山田藤一、浜松地方連絡事務所としては殿岡勝蔵が登録されている。第九号(昭和二十九年四月刊)の時点では地方開発事務所を減らし、地方連絡事務所を地方世話係と改めて、三倍強の人員を増やした。背景に教化活動の量的拡大があった。これら現場の当事者は地方講習会の主宰者として、本部派遣講師の前座を務め、会員の日常生活に密着し、日常の相談に乗るという支柱的役割を担う者である。
山田藤一(明治二十四年~昭和四十三年)の場合は昭和二十一年十月一日付でモラロジーの本部維持会員となっており、同二十二年度には舞阪駅前地区で十名が入会した。山田自身は戦前以来、米穀会社を経営し、特定郵便局長を務め、地域社会の重要な地位を有していた。
舞阪連絡事務所が受け持つモラロジー活動の範囲は、地方連絡事務所が設置されていない地域も含めた地域の教化活動もあり、この時点では浜名湖西岸の新居・北岸の三ヶ日も含んでいた。
次に地方連絡事務所の開設直後、昭和二十三年から数年間の活動について、山田藤一の後継者の一人であり、同二十二年四月一日に入会した岩崎鑛一(明治四十三年~昭和四十七年)が記録した会員氏名・会計記録・「日誌」などによって、その記事を拾うことにする。
家庭研究会は会員の個人宅、もしくは舞阪駅前郵便局二階で開催した。講習会は舞阪駅前郵便局二階と春日幼稚園とを利用した。家庭研究会の開催回数は、昭和二十三年には三十六回、同二十四年には三十二回、同二十五年には二十回、同二十六年には二十七回、同二十七年には二十二回である。
時間は夕食後の七時から十時ごろまでであり、舞阪地区から新居・三ヶ日までの移動は自転車であったから、戦後の未舗装道路と自転車のパンクには悩まされたようである。講話はおおむね三席あり、発表者は会場提供者の当主や会員である。「日誌」には研究会席上の体験講話の記事が多い。モラロジーにおける諸原理を日常生活で実践した内容が中核であろう。体験談話の機能は組織体に通底する重要事である。これは祖述と同様、従学者に広池の言動を追体験させ、日常経験を広池の言動に共鳴付会させ、『道徳科学の研究』に収斂(しゅうれん)させることにある。それは精神構造の客観化であり、高揚した一体感を培うものである。
「日誌」には第一回の講習会(昭和二十三年四月一日~四月十六日)の状況を示す統計記事(申込者数・出席者数、男女別年齢、男女別職業)がある。この第一回の講習期間中には浜名湖食品会社や舞阪駅・鉄道保線区部員五十名(高塚駅~新所原駅)を対象とした講話があった。以上のような活動状況が舞阪駅前地区におけるモラロジーの定着過程の始まりである。以後、現在に至るまで継続している。