[戦後青年の理念と行動]

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【浜松高工南寮文集『つばくろ』 人格と徳 応用化学科卒業記念誌『無題』 桜場周吉 服部昭】
 戦時中と敗戦後の三年間を過ごした浜松高等工業学校(浜松工業専門学校)の学生たちは一般市民と同様に食料の買い出しに精を出し、校地を耕して、不如意な生活をしていた。この時期の学生生活を記した文集がある。昭和二十一年次の「浜松高工南寮文化部」が編集記録した『つばくろ』二号、「浜松高工応用化学科第二十二期生」の卒業記念文集『無題』である(浜松市立中央図書館蔵)。この謄写版印刷による二点の文集から敗戦直後の高等教育を受けていた人々の、清冽(せいれつ)な倫理観の痕跡をうかがってみたい。
 浜松高等工業学校には寄宿寮が三つあった。昭和二十一年時点の名称では、南寮・北寮・西寮であるが、戦時中の至誠寮が南寮(現在の浜松市西部公民館西隣)と改名した。南寮は第一寮から第八寮まであり、各寮生の構成は専攻を異にする学生が混在し、総勢四十九名が寝起きしていた。
 この第二号は敗戦直後の浜松高工生の寮生活白書である。すなわち、「論説欄」、「鼓声欄」、「エンヂニヤ欄」、「文芸欄」、「記欄」を収載する。特に「論説欄」では「寮生活と自由」(菊川秋)・「私の『寮』理念」(中村雄次)などが軍国主義教育を総括した上での自由と寮生活の機能を論じ、寮の運営上の対立を解決するのは人格と徳であるとし、自由な意思表明と質疑応答こそ「最大の自由権力の行使」と論断した。
 右の両者の認識こそ戦後民主主義の原点であり、内面の陶冶(とうや)を前提に、社会的倫理観をいうものである。
 他方、編集後記(機械科二年、吉井正太郎執筆)は手厳しい内省の言葉である。自由の旗印の下に思索の深化と識見の向上を求め、現今の日本の若者を世界史的に相対化せんとする倫理観を記している。
 浜松高工応用化学科第二十二期生は戦時中の昭和十九年に入学、敗戦後の昭和二十二年三月に卒業を迎えた。卒業記念文集『無題』には、平時ならば青春彷徨の記録と言うべくも、あまりにも過酷な三年間の記事で埋められている。しかし民主主義と自由・自律を語る議論とは別に、投稿文に付された筆者紹介や批評は諧謔(かいぎゃく)的な乗りで語られ、戦時下の学窓を共にした仲間意識が溢れている。
 巻頭言の桜場周吉教授(筆名琇三)は「知性、行動性、社会性」と題して、学問や教養は「次の行動に移る為の活性エネルギーとして貯へられなければ意味が無い」といい、卒業生諸子が一個の活性的な原子的知識人として、その活性エネルギーが反応の方向を獲得し「滔々たる社会の潮流として反応が進む」姿を見ている。卒業生の知識人としての社会的行動と機能に期待している。
 卒業生の一人は、戦時中の学徒動員(仁科の鉱山・浜名用水開拓・清水日軽組・山北富士フィルム組・上田住友通信組)や敗戦後の不十分な学業環境を甘受せざるを得なかったことから、新しい社会に向かう不安を吐露する。すなわち、服部昭は「技術者の卵」と題した文章中で、何ほどか実験に向かう科学的態度が達成されたかと、真摯に勉学した者のみが書き得る内省の言葉を残した。文末で「あの窓ガラスの破れた吹きさらしの燃料二教室の凍るやうな寒さが楽しい思ひ出となる日を希望」している。今や静岡大学浜松キャンパスにおいては高射砲連隊の遺構は砲廠・門・土塁ぐらいであろう。このような痛ましい歴史的事実は記憶されるべきである。桜場周吉がいう活性原子としての生き方を自覚し、社会的諸反応の一結果が今日の科学技術であるから、この世代の多数の服部昭が担った倫理観と知性・行動に敬意を表するゆえんである。