浜松は、もともと内発型工業都市として、地場資源、地場資金、地場技術を活用し、産業を興し、繊維産業や楽器産業を発展させてきた。さらに浜松は繊維産業に繊維機械工業を加え、一大綿織物産地を形成した。また楽器産業を含めた木製品加工産業も発展・集積してきた。しかし、戦時経済下において、産業都市浜松は軍需産業化を進め、従来の綿織物や木工品生産中心の軽工業都市から軍需産業を中心とした重工業都市へ変貌していった。地域の代表的な企業も、次々に軍需品の製造へ移行していった。また、浅野財閥系の浅野重工業や中島飛行機なども浜松へ進出し、一大軍需産業都市に変質したのであった。そのため大戦末期には徹底した爆撃を受けることになった。特に昭和二十年六月十八日の空襲では数万発の焼夷弾が投下され、市の中心部は壊滅し、死者も千百有余名に達した。この戦争により、浜松は明治以降築き上げてきた産業基盤を失うとともに、市街地の大半は焦土と化したのである。
戦時経済下において、我が国の産業構造は重工業化へ著しく傾斜していった。この傾向は産業都市浜松においても同様で、地域の経済的諸資源(ヒト、モノ、カネ)は重点的に兵器や軍需に直結した製品の生産へ配分された。しかし、こうした戦時下の極端な重工業化は、産業基盤を蓄積していくのではなく、戦争による軍需品の消耗によって、産業の再生産構造を弱めていくことに作用した。また、軍需生産拡大を図るために、生活に直接結び付く軽工業製品の生産が極限近くまで削減され、食料も乏しくなったため市民は耐乏生活を強いられた。従って、敗戦は軍需に依存した重工業化そのものが破綻したことを意味した。しかし同時に、産業都市浜松にとって軍需産業化は、繊維産業や木工産業といった軽工業中心の産業構造が重工業へシフトしたことを意味した。このような産業構造の変化こそが、戦後、いち早くオートバイ産業を勃興させた背景と言えよう。