県内の金融機関がどのように対応したかは『静岡銀行史』に詳しい。静岡銀行は、政府の政策に沿って簡易店舗(特別出張所等)や出張所を預金吸収目的で各地に設置した。また、預金種目についても復興定期預金、無記名定期預金、七福定期預金等を創設し、預金の増大を図った。日本勧業銀行浜松支店は、図2-31のような福徳定期預金の広告を出している。
終戦直後の昭和二十年から二十二年にかけて、都市銀行は全国の主要都市へ、次々に店舗を設置していった。浜松へは三和銀行と野村銀行(後の大和銀行)の二行が進出した。
昭和二十三年八月に中小企業庁が設置され、静岡県も中小企業対策に乗り出し、中小企業の組織化や金融対策の検討を開始した。このような背景の下で設立されたのが信用保証協会である。翌二十四年十二月一日に財団法人静岡県信用保証協会が発足し、浜松でも同日業務を開始した。
明治中期から大正中ごろまで、浜松には「浜松の二大銀行」と呼ばれていた資産銀行と西遠銀行があった。しかし、両行は大正九年(一九二〇)に合併し遠州銀行となった。その後、昭和十八年(一九四三)三月に遠州銀行は静岡三十五銀行と合併し、静岡銀行として発足した。そのため浜松にあった遠州銀行本店は静岡銀行浜松支店になったのである。戦前においてほぼ一県一行に集約された地域金融は、戦後の急激な産業復興に伴う復興資金や投資資金需要に十分に応えられなかった。昭和二十三年に浜松市内で開業していた銀行は、静岡銀行を除くと都市銀行が多かった。都市銀行の融資の特徴は厳選主義による選別融資で、必ずしも地域内の大多数を占める中小企業の資金需要に十分に応えられるものではなかった。このようなニーズに応えるものとして、浜松商工会議所の役員や商工関係者などが発起人となり、中小企業等協同組合法による信用組合を設置することにした。二十五年四月十日に浜松信用組合の創立総会を開催、五月一日には連尺町にあった浜松繊維製品商業協同組合の建物を借り受けて浜松信用組合が業務を開始した。同二十六年六月に信用金庫法が施行されると、浜松信用組合は同年十一月十五日に浜松信用金庫と改称した。その後、業務の拡張に伴い大きな本店が必要となった。そこで、それまでの本店のすぐ南側にある鉄筋コンクリートの建物に本店を移した。ここは、もともと静岡三十五銀行浜松支店であったが、後に静岡銀行浜松伝馬町支店となり、空襲により内部を焼失していた。戦後はセントラル劇場という映画館となり、以後たびたび変遷を繰り返していた。この建物の内部を改装して本店とすることにし、昭和二十七年十二月に完成、二十二日に本店として業務を開始したのであった。これより先の昭和二十六年十一月には木戸町に東支店を、同二十七年十月には追分町に追分支店を開設するなど業績は順調に伸びていった。
図2-31 福徳定期預金の御案内