[廃墟と化した中心商業地とやみ市の発生]

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【やみ市 露天商 カリソン】
 浜松は軍需産業都市であったため、昭和十九年十二月十三日から終戦までの間に二十七回の空襲や艦砲射撃を受け、中心市街地の大部分が焦土と化した。中心市街地では、昭和十二年に開店した松菱百貨店ほかわずかな建物だけが残った。
 敗戦とともに焼け野原になった市街地には、自然発生的にやみ市(青空市)ができ、ふかし芋、すいとん、おにぎり、イカの丸煮などの食べ物や日用雑貨などが売られるようになった。最初は浜松駅前や道幅の広い板屋町の広小路通りに出来た。その後、駅前は壊されて田町に出来た。やみ市には警察の取り締まりがたびたび入ったが、昭和二十一年八月一日の取り締まりでは三百あった露天商が半減したという。同年の年末では許可された露天商は七百八十九軒で、実際に営業していたのは百二十軒であった。二十二年五月の段階では許可されていたのは九百余軒、実際に営業していたのは百四十軒で、店を出していた人たちは戦災者が最も多く六十三%、引揚者が十五%、復員者が十四%、一般が八%となっていた。
 昭和二十二年七月、浜松の復興が進んでくると、街の体裁や交通の邪魔になるという意見が出始め、中心部からやや離れた五社通りや鴨江観音付近への移転の声が上がったが、露天商は市の復興や物価の値下げに貢献しているとのことで反対を貫いた。二十三年十月になると、静岡軍政部のカリソン大尉から「闇屋の横行をみのがしているのは警察の責任」と厳しく指摘された浜松警察署はやみ屋の一斉調査を行うとともに、主食、生鮮食品等の禁制品を販売する者に対し転廃業を勧告した。この時点で、やみ市は鍛冶町・田町・板屋町・旭町の四カ所にあり、常時営業は二、三百人とみられていた(『静岡新聞』昭和二十三年十月二十五日付、『新編史料編五』 五産業 史料24)。なお、このころになると商店の復興が急速に進み、同年十月二十九日には浜松商店界連盟が結成され、商業活動は露店から普通の商店へ移行していった。