[有楽街と浜松座通りの発展]

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【有楽街 スズラン灯 浜松座通り】
 昭和二十一年十二月二十四日肴町に松竹座が、同二十二年十二月に第一セントラル劇場が開館し、邦画と洋画が隣接した二館で楽しめるようになった。こうしたことから、昭和二十三年の暮れになって、肴町の大安寺下、鍛冶町の新小路、田町の西区の三カ町は連合して盛り場を作ることを決め、その名前を有楽街と決定した。昭和二十四年十一月、これまでの第一セントラル劇場は東映劇場となった。そして浜松一の繁華街をつくろうと昭和二十六年四月にはスズラン灯をともして夜も明るい通りにした。多くの商店が建設を始め、にぎやかな通りとなった。
 浜松座通り(今のモール街)一帯は、江戸時代には東海道の後ろにあったことから後道(うしろみち)と呼ばれていた。東海道に近い通りは上後道(今の中央柳通り)、その東側は下後道(後の浜松座通り)であった。明治三十四年(一九〇一)に巨大な歌舞伎座が、大正三年(一九一四)には浜松座が下後道に完成すると、ここでは歌舞伎・剣劇・演劇・映画などが上演されて芸能の街となり、また、料亭や芸者置屋も数多くでき、歓楽の街ともなった。戦後は、昭和二十一年三月にシロバラ劇場ができ、以後シネマ、千歳劇場と名前を変え、昭和二十五年一月一日に浜松座となった。ここでは剣劇・新派・文楽・浪曲・歌劇など様々な催しが行われ、また、多くの商店や食堂、割烹などが立ち並び、有楽街と並ぶほどのにぎやかな通りとなった。人々はこの通りを浜松座通りと呼ぶようになった。