徹底した空襲と艦砲射撃を受けた浜松は、都市として壊滅的打撃を被った。昭和二十一年六月、市当局が公表した戦前と戦後の各種の比較対照表によると、人口は、戦前十八万七千五百人から戦後十万二千人へ、住宅戸数は三万五千戸から一万九千戸へ、勤労者数は三万八千人から一万九千人へ激減した。さらに大きく減少したのは工場数と商店数で、工場数は戦災前二千十二工場であったものが戦後百二工場に、商店数は一万戸から六千六百戸へ大幅に減少した(『静岡新聞』昭和二十一年六月二十三日付、『新編史料編五』 五産業 史料1)。
また、昭和二十二年当時、浜松商工会議所が調査した各工業の被災率(表2-16)を見ると、最も高い被災率は製材工業で全滅の状態であった。九十%台の損害を被った工業は工作機械工業・印刷工業・食料品工業で、七十%台は織機工業と織布工業であった。このような甚大な被害を被った理由は、産業都市浜松が、戦時中に軍需産業化したためで、各工業の機械や設備はほとんど焼失してしまった。産業都市浜松の再生は、この焼け野原の中から始まった。
昭和二十一年一月五日の『静岡新聞』において、日本楽器製造株式会社(以下日本楽器という)の川上嘉市は「平和産業にたちかへる」と題して、次のような談話を寄せている。
私の会社は本社工場、天竜分工場共に三回にわたる空襲並に艦砲射撃のために、約半分ほど焼失した、殊に戦時中平和産業部面は全然生産を中止して居つたので、終戦後の転換には相当の苦心を要した、それに較べると他の空襲を全然受けなかつた都市の工場は、本当に幸福だつたと思ふ、唯当社でもベニヤ板を製造してゐる岩手工場だけは無事だつた
終戦直後私は、当社が将来如何なる方向に進む可きかについて熟考した、そして結論としてはやはり旧来の本業であつた楽器、家具、木工品並にベニヤ板等の平和産業に立戻るになつた事は勿論である、そのうちハーモニカ、シロフオーン等は進駐軍の土産品に指定せられ米穀その他の輸入物資の見返品に指定せられてゐるのである、ヴアイオリン、ギター等もその中には、輸出に充当せられる運命にある、唯ピアノは、その資材たるピアノ線やフエルト等の製造家の立上りが後れてゐるために、製造し得ないのは遺憾である、他の製品は既に着々生産に入りつゝある、家具に対する私の基本の理念は、日本は完全に敗戦して四等国の焼印を捺されたが、国民の精神までも四等国民たらしめてはならないと言ふことから出発してゐる、このために自分の社では家具類を造るに当つて、品質を戦前のものに劣らないことを心掛けるのみならず、更に新案を加へて、便利、堅牢、実質を兼ね、しかも新鮮味を有するものたらしめたいと考てゐる
表2-16 浜松地域工業の被災率 (昭和22年)(単位:%)
出典:『浜松商工名鑑』1951より作成
織機工業 | 70 |
工作機械工業 | 90 |
鋳造工業 | 60 |
製材工業 | 100 |
木製品工業 | 33 |
織布工業 | 70 |
染色工業 | 50 |
土建工業 | 35 |
化学工業 | 60 |
ゴム工業 | 10 |
印刷工業 | 93 |
食料品工業 | 90 |
平均 | 63 |
表2-17 浜松地域工業における施設の復興率(昭和24年)(単位:%)
出典:『浜松商工名鑑』1951より作成
織機工業 | 72 |
工作機械工業 | 43 |
鋳造工業 | 63 |
製材工業 | 72 |
木製品工業 | 65 |
織布工業 | 22 |
染色工業 | 42 |
土建工業 | 98 |
化学工業 | 80 |
ゴム工業 | 100 |
印刷工業 | 70 |
食料品工業 | 70 |
平均 | 67 |