[平和産業への移行]

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【平和産業 住倉工業浜松製作所 富士産業 ミシン リズム 富士精密工業】
 明治以降の工業発展の中で成長してきた工業は、繊維、織機、楽器、木製品、工作機械など、直接、間接に生活にかかわる製品の生産が中心であった。そのため、戦時経済下で一平和産業時的に軍需産業へ傾斜したものの、戦後の平和産業への移行は、長年蓄積されてきた生産技術の再活用といった面において比較的スムーズに進んだ。
 他方、軍需産業化のシンボル的存在であった浅野重工業と中島飛行機は、戦後どのように転身したのであろうか。浅野重工業の浜松工場は、昭和二十年十二月に小倉製鋼株式会社浜松製作所となり、次いで昭和二十八年四月に九州鋼業と合併して住倉工業浜松製作所となった。その後、昭和五十七年に新しく住倉工業として独立した。この会社では金属二次加工機械、各種結束機械、製鉄機械などの生産を行った。
 中島飛行機は、昭和二十年九月に富士産業と社名を変更し、浜松工場ではミシンの生産に乗り出した。その理由は航空機のエンジン製造技術がミシン製造に転用できるというものであった。富士産業に対しミシン生産の許可が下りたのは昭和二十一年秋で、生産開始は同年十二月のことであった。会社は製造したミシンに「リズム」というブランドを付け、需要拡大期と相まって、富士産業(浜松工場は昭和二十五年七月に富士精密工業株式会社浜松工場となる)は成長していった。こうしたミシン工業の発展に刺激を受け、地域内に二、三の中小組立工場も設立された。