[日本楽器における労使関係の再編]

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【日本楽器 日本楽器聯合労働組合 日楽経営協議会 日本楽器労働組合 新労働協約 経営権の独立】
 日本楽器の生産再開は昭和二十年八月二十日、本社事務所を佐久良(さくら)工場(磐田郡光明村船明)から浜松市中沢町へ戻すことから始まった。日本楽器は戦時中プロペラや補助タンク等の軍需製品を生産し、動員学徒や女子挺身隊を加えて約一万人の従業員を雇用していたが敗戦を契機に全員を解雇し、平和産業へ移行していった。これに伴い、製材・木材・楽器部門の工員を主とした千二百三十四名を新規に採用するかたちで再雇用した。また、事務職員も九月には全員を解雇し、四百五十一名を新規採用で再雇用した。
 他方、経営陣は、旧財閥系の外部役員は退き、すべて社内の役員によって構成されることになった。新経営陣は以下の通りである。
 
 (代表取締役社長) 川上 嘉市  (常務取締役)相佐 春作
 (取締役) 大村 兼次  足立 荘  鈴木 実  菊池 一雄
 (監査役) 林 慶吉  杉浦 公庸
 
 日本楽器における労働組合の結成は、昭和二十年九月八日に天竜工場(組合員数四百七十名)で始まり、翌年二月には本社労働組合(組合員数千七百十三名)が結成された。その後も佐久良、岩手、東京、大阪など各地で結成されたが、二十一年四月十九日には連合体組織として、日本楽器聯合労働組合が発足した。このように、組合が次々に組織化された背景には、占領政策による労働組合結成の奨励策があったのは言うまでもない。
 日楽聯合労組は結成の理念を、次のような綱領にまとめ上げた。
 
 一、我等ハ日本人タルノ本分ヲ自覚シ生産ヲ向上シ以テ新日本建設ニ挺身センコトヲ期ス
 一、我等ハ鞏固ナル団結ニヨリ労働条件ノ改善ヲ計リ社会的地位ノ向上ヲ期ス
 一、我等ハ社会正義ニ立脚シ自主的組織ヲ以テ自己ノ使命ト責任ノ完遂ヲ期ス
 
 これにより日楽聯合労組が第一に掲げた要求は経営協議会をつくることであった。この意図は、経営協議会を通じて人事・給与・福利厚生・生産等、会社経営などのあらゆる問題について経営側と協議するところにあった。この要求は昭和二十一年十月三十日に「協約書」(十四カ条)の締結として成就した。その第九条には「会社ハ組合ト協議ノ上協約締結ノ主旨ニ鑑ミ『日楽経営協議会』ヲ設置ス」として盛り込まれた。
 その後、日楽聯合労組は単一組合に組織替えをすることになり、昭和二十二年十一月五日に結成大会が開催され、日本楽器労働組合が誕生した。単一労組化に伴い経営者側と組合側は、新たに三十二カ条からなる「協約書」を締結し、改めて労働権と経営権を労使双方で確認し合った。
 この協約書においても経営協議会は大きな意味を持っていた。第二十条では日楽経営協議会の設置が規定され、二十一条では協議事項が五つ、二十二条では諮問事項が三つ、二十三条では連絡事項が三つなど、労使双方で話し合う事項が事細かに設定された。
 この経営協議会は、戦後、労働運動の昂揚の中で急速に広まったものであり、当時の経営協議会の多くは労使同数の代表によって構成された機関で、その討議項目も労働条件、福利厚生、生産技術はもちろんのこと、事業計画や経理など、経営権に対する労働組合の介入は広範囲に及んだ。
 しかし、昭和二十二年の二・一ゼネストの禁止や公務員の労働三権の制限(昭和二十三年)を契機にした労働組合法の全面改正(昭和二十四年六月)により、経営者側は経営権回復のための改革に乗り出した。日本楽器における経営権の回復は、昭和二十五年に締結された新労働協約においてであった。新労働協約において、経営権の独立は次のような条文によって具体化した。
 
   (経営権の確認)
   組合は会社の機構、職制の制定改廃、生産営業の計画実施、経理の運営、財産の管理処分、人事管理(採用、異動、任免、休職、賞罰、解雇、人事考課等)並びに従業員の指揮、統制等、事業の経営は凡て会社の権限と責任に於いて行われることを確認する。
 
 これに対し労働権の確認では「会社は組合員が本協定の定める所に従い、会社所定の作業に従事する権利と責任を持つことを認め、組合員が団結、団体交渉及び団体行動に関する権限を持つことを確認する。」となった。これにより、経営権の独立性が大幅に拡大したのに対し、労働権は一定の枠に制限されたのである。このことは、労働組合運動の政治的性格を排除し、主として賃金を中心とする経済的要求の枠内にとどめる意味を持っていた。このような労使関係の在り方が、後の企業成長の土台となったのである。