[織機生産の再開]

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【サロン織機 鈴木式織機 織機の生産 オリオン】
 敗戦直後、鈴木式織機と遠州織機を中心とした、遠州地方の繊維機械工業は再建への道を模索していた。昭和二十一年六月になると、アメリカからの原綿の輸入が開始され、繊維産業も復興の兆しを見せた。また、政府から輸入見返り物資としてサロン織機の大量生産命令が発せられた。このようにして織機の注文が増えたものの、燃料が不足していたため生産実績は低調のままであった。しかし、昭和二十二年になると食糧や原材料の輸入も徐々に増えて、それに伴い織機の生産も回復していった。
 昭和二十二年二月、GHQによって綿紡四百万錘までの生産稼働が許可されるに伴い、遠州地方の織機メーカーも復興の足掛かりをつかむことが出来るようになった。二十三年になると、紡績会社や地方の機屋(はたや)からの注文が舞い込み、右記の二大メーカーだけでなく中小のメーカーも生産を再開した。
 鈴木式織機の場合、戦後復興がどのように進められたかを、鈴木自動車工業『四十年史』で見ると、終戦時に数千人いた従業員を全員解雇し、改めて新規採用をした。戦時下での軍需品の生産を取りやめ、織機の生産に切り替えることとした。新規に採用した工員約五百人で織機の生産を始めたが、浮沈盛衰が激しく、売れるものは何でも作らなければならなかった。そのころ製造したものはスキ・クワ・カマなどの農具から、電気コンロ、ペンチ、汽車の窓の開閉バネ、ベッド、さらにはオルガンやハーモニカも製造した。ハーモニカは「オリオン」というブランド名で売りに出した。