【ドッジ・ライン 朝鮮戦争特需 特需ブーム】
ドッジ・ラインと呼ばれる経済安定政策は、その背景に、アメリカの対日政策の転換があった。日本の非軍事化を最重点とした初期の占領政策は、東西冷戦の本格化によって日本経済の復興を促進する方向に転換していった。ドッジ・ラインという強力な経済安定政策は、昭和二十四年二月のジョセフ・ドッジ(公使兼財政顧問)の来日によって始まった。ドッジの基本構想は、①国内の総需要を抑制し、過剰購買力を削減し、輸出を拡大させる、②単一為替レート設定・補助金廃止によって市場メカニズムを回復させ、合理化を促進する、③政府貯蓄と対日援助で民間投資資金を供給し、生産を拡大させる、という三つの柱からなっていた。ドッジの行った超均衡財政政策と単一為替レートの設定(一ドル三百六十円)は日本経済に大きな影響を与えた。超均衡財政政策においては、財政支出の削減と日銀券の増発の抑制による金融引き締めが行われたため、インフレは収束したものの、資金需給を逼迫させ金詰まりによる倒産を拡大させた。単一為替レートの設定は、輸出産業に打撃を与えた。今までの貿易は生産原価を土台にして円価格によって評価していた。そのため、単一レートになると生産コストの引き下げが絶対条件になり、輸出補助金を受けていた企業などは打撃を受けることになった。国内の購買力は目に見えて減少し、倒産する企業も続出した。インフレが一転してデフレになり、不況感を深刻化させたのである。
このドッジ・ラインは、戦災から復興し始めた浜松の産業界へも影響を与えた。復興し始めた繊維、繊維機械、楽器などは海外への輸出を拡大し、復興の兆しを見せていた。しかし、デフレ効果は受注の解約を続出させ、さらに単一為替レートは輸出を減少させた。特に、繊維機械工業にあっては、復興金融金庫からの融資で設備の拡張を図ってきたが、ドッジ・ラインによる新規貸出の全面ストップで大きな打撃を受けることになった。他方、単一為替レートの設定は企業に経営合理化を迫ることになり、その結果生産コストの削減は、賃金抑制や人員整理を招いたため、それに反発した労働運動を激化させた(三協機械製作所、鈴木式織機、加藤鉄工所の争議については『遠州機械金属工業発展史』に詳しい)。
ドッジ・ラインによるデフレ効果を一変させたのが、昭和二十五年に始まった朝鮮戦争による特需であった。韓国に最も近い日本には、出動する米軍の緊急軍需品が発注され、その支払いがドルでなされることになった。外貨不足に悩んでいた日本にとって、この特需収入は経済復興に大きな効果を上げることになった。これにより企業の収益率は急騰し、賃金も目に見えて上昇していった。このことにより、ドッジ・ライン当時の不況が一転して特需ブームになっていったのである。
浜松の各産業も、この朝鮮特需によって、息を吹き返し始めた。綿織物は、原糸の高騰もあったが、輸出は増大し、内需を中心とした小巾織物が活況を呈した。さらに、特需織物としてガーゼ・包帯地の受注も増えた。