オートバイ工業

234 ~ 241 / 900ページ
【本田宗一郎 本田技術研究所 カブ号 本田技研工業 鈴木式織機 パワーフリー号 コレダ号 日本楽器 YAMAHA125 赤とんぼ ヤマハ発動機 丸正自動車製造 伊藤正 ライラック号 溝淵定 北川自動車工業 ライナー号 北川広司 三協機械製作所 SANKYO号 ヤマト商会 ラッキー号 犬飼兼三郎 ロケット商会 増井勇 相生モータース 杉山富夫 スパークV型 長本発動機 長本庄包 ライフ号 中央興業 月村判述 セントラル号】
 現在、わが国の二輪車メーカーは本田技研工業、ヤマハ発動機、スズキ、川崎重工業で、各社のマーケット・シェアは、それぞれ五十五・五%、二十四・四%、十七・三%、二・八%である(二〇〇四年現在)。しかし、ピーク時には、国内に二百社前後の二輪車メーカーが乱立し、その主要舞台が、三大メーカーの発祥地でもある浜松地域であった。
 産業都市浜松にとって、戦後の二輪車工業の勃興は大きな意味を持った。第一に、戦争により大きな被害を受けたにもかかわらず、戦後比較的早く、産業都市として復興し得たのは二輪車工業の勃興に負うところが大きかった。第二に、二輪車工業の成長は戦後の浜松の産業構造を加工組立工業として特徴付けるものになった。特に、地域の三大メーカーであるホンダ・スズキ・ヤマハが、いずれも二輪車工業に進出したことは、地域の産業構造に大きな影響を与えることになった。二輪車工業の特徴は、多数の部品を集め、かつスケール・メリットを活かし、効率よく組み立てていくところにある。従って、生産の前提として、多くの部品メーカーを組織化する必要がある。それ故、二輪車工業は多数の部品メーカーと少数の完成車メーカーに分化するという特徴を持つことになる。
 浜松の二輪車生産が、本田宗一郎によって始められたことはあまりにも有名である。本田宗一郎が二輪車生産へ乗り出すきっかけは、陸軍の無線機発電用の小型発動機を改良し、それを自転車に装着したのが始まりであったと言われている。戦後、本田宗一郎は浜松市山下町に本田技術研究所を設立し原付自転車を製造・販売している。山下工場は、通称六間道路に面しており、三十坪足らずの木造バラックの機械加工工場であった。昭和二十三年には、野口町の三十坪足らずの織物関連工場の空き屋を買収改造した。野口工場では、山下工場で加工された部品と外注品でエンジン組み立てが行われていた。後に、この工場ではカブが生産され脚光を浴びることになった(詳しくは表2-21参照)。
 本田宗一郎は、カブ号を設計するに当たって次のように述べている。「現在我が国で最も普及されて居る乗物は自転車ですが、これに機動力を持たせて、せめてスピード時代の世界の仲間入をして頂く為に、自転車補助エンヂンを考へたのです」(『ホンダ月報』No.12)。このカブ号は取り扱いも簡単で、燃料消費も少ないため人気を博し、ホンダにおける二輪車生産の基礎を築くものとなった。その後(昭和二十七年四月)、本田技研工業は研究試作とカブ号の生産だけを浜松に残し本社を東京へ移転し新工場を埼玉県大和町に建設した。本社の東京移転の背景には投資資金の調達問題と全国的な営業体制の確立があったと言われている。
 次に、スズキの場合を見ることにする。鈴木式織機が自動車の試作を行ったのは戦前にさかのぼる。昭和十二年八月に、鈴木道雄は英国から小型自動車(オースチンセダン)を購入し、試作のための研究に入った。同十四年には数台の試作車を完成させている。自動車の試作に乗り出した背景には織機製造だけでは事業として限界があったためと言われている。その後、戦時体制下に入ると、軍需品生産に傾斜したため自動車研究は中止となった。鈴木式織機が本格的に二輪車産業に乗り出したのは、昭和二十七年四月であった。バイクモーター(自転車補助エンジン)の製作に着手し、同年六月から設備の一部を転換してパワーフリー号の大量生産に入った。このフリー号が驚異的な売り上げを示し、工場設備の拡張を行った。フリー号大躍進の理由には、郵政省からの多量注文があったと言われている。昭和二十九年には本格的なオートバイであるコレダ号を生産している。
 楽器メーカーである日本楽器がオートバイ生産に乗り出した理由は、戦後、遊休化していた機械や設備の有効活用がきっかけであった。オートバイ製造に着手したのは昭和二十九年十二月で、三大メーカーの中では最も後発であった。生産したオートバイ「YAMAHA125」は〝赤とんぼ〟の愛称で爆発的な売れ行きを示した。その後、昭和三十年七月一日、オートバイ製造部門を分離独立させ、ヤマハ発動機株式会社を設立した。
 三大メーカー以外の主なメーカーには、次のような企業がある。スパーク号の相生モータース、ライラック号の丸正自動車製造、ライナー号の北川自動車工業、サンキョウ号の三協機械製作所、ファルコン号の万邦自動車商工、クインロケット号のロケット商会、シルバーベル号の大河内鉄工所、ハッピーセブン号の日進自動車工業、ヤマトラッキー号のヤマト商会、ホープスター号の天龍自動車工業(天竜織機)、ライフ号の長本発動機、マスコット号の石津機械製作所、オリンピアン号の杉本商会、セントラル号の中央興業、ヤング号の遠州皮革工業、エンゼル号の鈴木工業などが次々に誕生し、最盛期には浜松周辺で三十を超える完成品メーカーが誕生した(表2-22参照)。二十八年のピーク時には月産一万一千台に上った。この内、主な中小メーカーの概要を見ることにしよう。
 
(1)丸正自動車製造 丸正自動車製造の前身は、昭和二十三年五月(戦前の昭和十五年にも設立されたことがある。)に伊藤正によって設立された丸正商会(浜松市上池川町)で自動車の販売修理及びトラックボディーの製作を目的に誕生した会社である。昭和二十五年十月、チェーンのないオートバイ、すなわちシャフト・ドライブ方式を全国に先駆けて取り入れたライラック号ML型の試作に成功し、社名を丸正自動車製造株式会社とした。そして翌年から本格的にオートバイ生産に乗り出した。このライラック号はシャフトによってエンジンの力を後輪に伝えるという方式のため快適なドライブが出来るということで愛用者が急増していった。このシャフトドライブ技術を担当したのは溝淵定(丸正倒産後はブリヂストンサイクルや台湾のメーカーで活躍した。)であった。昭和二十八年三月には、本社を東京に移転、その後もベビーライラック号やライラック・サンキュウ号を発売し、多くの愛用者を獲得していった。
(2)北川自動車工業 ライナー号の北川自動車工業は、昭和二十五年、創業者・北川広司によって創られた会社である。北川は、当初ホンダが開発したA型エンジンを荷台付の自転車に取り付け販売していたが、会社設立後富士工業がつくったエンジンを載せたポートリーロビン号を生産した。その後ヨーロッパから最新の機械を輸入し、シャフトドライブのライナー号を生産した。
(3)三協機械製作所 もともとは昭和七年に紡織準備機械を作る会社として創立されたが、太平洋戦争中は高速旋盤や航空機の部品を作っていた。戦後織機の生産に戻ったものの、バイクモーターブームが起こると三協機械製作所もモーター部を設置し、織機と並んでバイクモーターの生産に乗り出した。昭和二十八年に4サイクルで90ccのSANKYO号を発売した。SANKYO号は①悪路でも走れる三協式クッション②焼き付きしないエンジン、③ボルト・ナットはクロームメッキをしているため錆び付かない、といった特徴を持っていた。しかし、他社に比べ販売網が弱いため短命に終わっている。
(4)ヤマト商会 以前は本田技術研究所の製品の販売修理をしていたが、昭和二十三年、資本金二十万円をもって独立し自社ブランドのラッキー号を製作した。当時のバイクモーターは自転車にエンジンを搭載したものが多かったが、ラッキー号はオートバイフレーム形式のため、これが愛好者から高く評価された。ヤマト商会を設立した犬飼兼三郎は本田宗一郎に陸軍の無線機用エンジンを持ち込んだ人物で、本田の友人であった。その関係から、本田技研の製品の販売修理を担当していた。犬飼がオートバイづくりに乗り出したきっかけは、本田からの製品の納入がたびたび遅れ業を煮やしたためと言われている。犬飼は、市内の増田鉄工所と協力してオートバイづくりを始め、紆余曲折はあったものの昭和二十四年にラッキー号を完成させた。ラッキー号の特徴は車体の軽さと加速に良さがあり、浜松で行われたレースで好成績を収めている。しかし、ラッキー号は125ccの新しいエンジン開発に失敗し、その結果多額の負債を抱えて昭和三十年七月に倒産した。
(5)ロケット商会 社長の増井勇は繊維問屋に生まれ、戦前三菱重工業名古屋工場に勤務していた。戦後、平和産業の花形はオートバイと考え昭和二十四年に創業、二十六年に株式会社に改組し(株)ロケット商会として再スタートさせた。ロケット商会が製作したクイン・ロケット号は、ほかのメーカーと異なり部品の大小を問わずすべて下請業者に任せ、各下請会社から送られてくる部品を設計通り精密に組み立てるという方式で生産された。ロケット商会のエンジンは、当初新三菱重工のメイキエンジンを採用したが、新三菱重工がスクーター事業に進出するため、名古屋の榎村鉄工所のエンジンを採用した。しかし、昭和三十六年には、ホンダのスーパーカブやヤマハ発動機の台頭があり、オートバイ生産から撤退することになった。
(6)相生モータース 昭和二十五年、杉山富夫によって創立された会社で、自動車修理業からのスタートであった。相生モータースの名を全国的にしたのは昭和三十年に出したスパークV型であった。このオートバイは排気量248ccで、世界でも類のないV型二気筒エンジンを搭載していた。
(7)長本発動機 昭和二十三年、長本庄包によって創立された会社でライフ号を生産した。このライフ号の特長は、シリンダーヘッドが空冷で、シリンダーバレルは水冷という極めて珍しいオートバイであった。しかし、空冷エンジンの性能が良くなると、ライフ号の利点がなくなり生産中止に追い込まれた。
(8)中央興業 昭和二十六年、タクシー業者の月村判述によって創立された会社で、四サイクル、90ccのセントラル号を生産した。セントラル号は西ドイツのNSUのオートバイのコピーであった。
 
 浜松地域における二輪車工業の勃興期において特筆すべきことは、最盛期には三十社を超える企業が乱立した点にある。さらに二輪車工業にかかわる機械部品、塗装、鋳造、鍍金、計器、ゴムなどの付属部品製造の下請け工場は六百工場に達したと言われる。なぜ、浜松地域という限られた産業空間の中でオートバイメーカーが乱立したのか。第一に、狭い産業空間であるが故に乱立したとも言える。モノを作る技術やノウハウは市場を通じては伝わりにくい。特に、モノづくりにおける暗黙知(熟練的な生産技術)は生産現場を共有しないと伝わらないのである。浜松という狭い産業空間において、一時的に企業が乱立するのは、地域におけるヒトとヒトの結び付きを通じて生産技術が伝わっていったのである。第二に、二輪車工業の先行産業とのつながりである。先行産業として繊維機械工業や工作機械工業の存在を無視するわけにはいかない。これらの先行産業は戦時経済下にあって鉄を加工する技術を習得し、機械・設備も蓄積してきた。また、工作機械工業は、もともと浜松地域において、さほど多く集積していなかったが、軍需品の生産によって拡大してきた産業である。これらの産業が先行産業となって、戦後の二輪車工業の爆発的拡大を生み出したのである。
 しかし、戦後、オートバイの製造に乗り出した企業の中には、タクシー業者、靴下製造、自動車販売業者、冷凍機販売など二輪車製造業と関係を持たない分野からの転身もあった。これらの企業が参入できる背景には、二輪車工業の特性があった。それは加工組立工業という特質で、鋳造、塗装、メッキ、板金、プレス、鍛造、溶接などの工程特化型企業や部品メーカーを組織化して成り立つ産業である。従って、これらの企業の集積度が高いため、非製造部門からの参入を容易にしたのである(表2-23)。
 
表2-21 本田技研工業 創業当時の動き
昭和21年10月本田宗一郎浜松市山下町三十番地に本田技術研究所を開設。
内燃機関及び各種工作機械の製造と研究に従事。
昭和22年3月河島喜好入社。
11月山下工場でA型エンジン生産開始。部品の一部ダイカスト化。
昭和23年2月浜松市野口町五八四番地に野口工場開設。
9月資本金百万円を以って浜松市板屋町二五七番地に本田技研工業(株)を設立。
10月本社内に浜松営業所を設置。
昭和24年8月本格的オートバイエンジン(D型)完成。ドリーム号と命名。
10月藤沢武夫常務取締役として入社。
11月資本金百万円から二百万円となる。
昭和25年3月東京営業所を東京都中央区槇町に設置。
9月東京都北区上十条のミシン工場を買収、東京工場を設置。
昭和26年3月東京工場にて車体を製作し、浜松より送られたエンジン取付け出荷開始。
7月ドリーム号E型試作車完成(十月発表)
9月ホンダ月報創刊。
昭和27年2月名古屋支店設置。
3月白子工場買収(埼玉県大和町白子)
4月浜松市板屋町二五七番地より東京都中央区槇町三-三へ本社移転。
5月四国支店(高松市)設置。E型エンジン生産を浜松から埼玉県白子に移管。
6月増資。二百万円から六百万円。
8月大阪支店設置。
11月増資。六百万円から一千五百万円。
12月カブF型月産七千台突破。東京工場を閉鎖、白子工場へ移管。
昭和28年1月中央区槇町五の五へ本社営業所を移管する。大和町に三万坪買収、大和工場建設開始。
九州支店設置。
4月白子工場完成(後に技術研究所となる)
5月大和工場第一期工事完成。
12月増資。一千五百万円から六千万円。
出典:ホンダ山下会想い出集『轍』より作成

表2-22 浜松地域における1950年代の二輪車工業
企業名創業年二輪車進出前の
業種・製品
二輪車の
製造期間
製造車種主要車名二輪車製造停止後の変化
相生モータース1937自動車修理1952〜58軽、原スパーク
石津機械製作所1918繊維・工作機械1951〜54マスコット繊維機械
HM商会1953スイセイ
遠州皮革工業1948織機バネ・板金1953ヤング
大河内鉄工所1943繊維機械1953〜55シルバーベル機械部品加工
加藤鉄工所1927工作・繊維機械1952〜54エンジン(ストロング号)のみ繊維機械
北川自動車工業1950自動車整備1952〜58原、軽、自ロビンライナー二輪車部品、ヤマハ車体を
経て現ヤマハ発動機
協立自動車工業1948自動車販売1953〜54ラッシュ自動車修理
協和発動機1953キング
三協機械製作所1932繊維・工作機械1952〜54サンキョウ繊維機械
杉本商会1953〜54原、軽オリンピアン
鈴木工業1936鉄工業1953〜54エンゼル閉鎖
鈴木自動車工業
(鈴木式織機)
1954
(1909)
繊維機械1952〜原、軽、自フリーコレダ存続、オートバイ、
四輪車、船外機他
西遠商工1955プラス
西遠発動機ポニー
大和技研工業自動車販売1953クイン
中央興業1951自動車修理、
タクシー業
1953〜57セントラルタクシー業
中部自動車工業1952繊維機械部品1953ライジング自動車修理
天龍自動車工業
(天竜織機)
1942繊維機械1952〜54ホープスター繊維機械
長本発動機研究所19481953〜56ライフ閉鎖
日進自動車工業靴下製造1951〜53ハッピーセブン閉鎖
服部モーター繊維機械部品1952〜54スイセイ
浜松スミタ商会1953
平野商会1953ハイカー
本田技研工業
(本田技術研究所)
1948
(1946)
内燃機関、工作機械、
自動車修理
1946〜原、軽、自ドリームカブベンリイ存続、オートバイ、四輪車、
発電機、各種エンジン他
堀井冷機1950冷凍機1953ヒバリ冷凍機
富士自動車1953ホーク
丸正自動車製造
(丸正商会)
1950
(1940)
自動車修理販売、
トラックボディ
1950〜61原、軽、自ライラック閉鎖
万邦自動車商工自動車修理販売ファルコン閉鎖
村井商会1952ニューセンター
ヤマト商会タクシー業1952〜57原、軽ヤマトラッキー閉鎖
ヤマハ発動機
(日本楽器製造)
1955
(1897)
楽器、プロペラ1955〜原、軽、自ヤマハ存続、オートバイ、
汎用エンジン他
ロケット商会1947フレーム販売1949〜61原、軽、自クインロケット自動車販売
出典:大塚昌利著『地方都市工業の地域構造』と『浜松商工名鑑』などより一部加筆修正し作成
注:空欄の部分は不明、製造車種の原は原動付自転車、軽は軽自動二輪車、自は自動二輪車。

表2-23 オートバイの主な鉄工部品メーカー
企業名代表者製造品目所在地
南部精機工業(株)大石 弘軽オートバイエンジン浜松市龍禅寺町
鈴木梅雄軽オートバイ部品〃  龍禅寺町
斎藤栄一軽オートバイ部品〃  龍禅寺町
(株)富士製作所柴田水穂軽オートバイ部品〃  龍禅寺町
中部自動車工業(株)川島猪太郎軽オートバイ部品〃  相生町
青島鉄工所青島熊太郎軽オートバイ部分品〃  助信町
杉山昇太郎杉山昇太郎軽オートバイ部分品〃  助信町
(株)増田鉄工所増田惣吉軽オートバイ部分品〃  海老塚町
(株)不二工業所袴田礼市軽オートバイ部分品〃  浅田町
隆鉄工所本間隆夫軽オートバイ部分品〃  浅田町
日本工業(株)浜松工場岩田宗太軽オートバイ部分品〃  佐藤町
(株)加藤鉄工所加藤幸太郎オートバイエンジン〃  寺島町
伊藤鉄工所伊藤一枝軽オートバイ部分品〃  寺島町
国華精工所森田工場板橋利昌軽オートバイ部分品〃  森田町
(株)鈴長鉄工所鈴木長次郎軽オートバイ部分品〃  森田町
明和鋳商(株)森 謙一軽オートバイ部分品〃  森田町
戸塚鉄工所戸塚正治軽オートバイ部品〃  砂山町
沢木鉄工所沢木金一郎軽オートバイ部品〃  砂山町
土屋鉄工所土屋令二軽オートバイ部品〃  馬込町
河出鉄工所河出清雄軽オートバイ発動機〃  元浜町
新海万平軽オートバイ部分品〃  名残町
双葉モータース商会太箸一平軽オートバイ部分品〃  子安町
大石 彰オートバイ部分品〃  中島東町
鈴木鉄工所鈴木謙治軽オートバイ部分品〃  中島東町
寺田一郎軽オートバイ部分品〃  曳馬町
生安協同工業所矢内国彦軽オートバイ部分品〃  北寺島町
大畑鉄工所大畑多作軽オートバイ部分品〃  北寺島町
藤田機械製作所藤田春一軽オートバイ部分品〃  北寺島町
山本金吾軽オートバイ部分品〃  北寺島町
(株)桜井製作所桜井定芳軽オートバイ部分品〃  新津町
タツミ製作所市野 巽軽オートバイ部分品〃  中沢町
藤田鉄工所藤田 明軽オートバイ部分品〃  中沢町
和多田幸一軽オートバイ部分品〃  西伊場町
菱田鉄工所菱田 悌軽オートバイ部品〃  砂山町
西田鉄工所西田宗五郎軽オートバイ部品〃  中島町
出典:『遠州機械金属工業発展史』、『浜松商工名鑑』1954より作成
注:昭和27年~31年の間に稼働していた工場。