[戦後緊急開拓と浜松の開拓地]

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【緊急開拓事業実施要領 開拓事業 開拓計画 浜松開拓 萩の原開拓 小豆餅開拓 根洗松開拓 百里園開拓 平手塚開拓 遠州開拓 都田開拓 白昭開拓 豊岡地区 川山開拓 根本山開拓 三方原開拓 共営地区 愛隣地区】
 戦後の未曾有の混乱の中で、次第に再建策が示され始めたとき、いち早く取り上げられたのが開拓計画であった。昭和二十年十一月、緊急開拓事業実施要領が閣議決定され、これによって戦後の農地開拓政策が展開されることになった。
 この要領によると、開拓事業の目的を「終戦後ノ食糧事情及復員ニ伴フ新農村建設ノ要請ニ即応シ大規模ナル開墾、干拓及土地改良事業ヲ実施シ以テ食糧ノ自給化ヲ図ルト共ニ離職セル工員、軍人其ノ他ノ者ノ帰農ヲ促進セントス」と述べている。
 すなわち、開拓事業の目的の第一は、食糧問題の解決であった。敗戦による国土の荒廃・労働力の不足・引揚者の増加・植民地の喪失などが、わが国における食糧需給のバランスを崩壊させてしまった。そのため食糧危機に直面することになり、食糧自給体制を作り上げることが急務であり、その打開策として開拓事業が実施されたのである。
 第二の目的は失業問題の解決であった。敗戦に伴い軍隊からは復員者、軍需工場から失業者、爆撃による戦災者、海外からの引揚者等によって人口が急増し、失業者が一千万人以上と予想された。そこで、これらの失業者に応急的に就労機会を与えなければならないが、産業の大部分は戦争によって破壊されているため、農業以外に適当な就労機会がなかったのである。従って、農地開拓が最も有力な失業対策として考えられた。この開拓計画の概要は次のようなものであった。
 
 (1)開墾によって五ヶ年間に百五十五万町歩の耕地を造成する。
 (2)干拓によって六ヶ年間に十万町歩の湖海を耕地とする。
 (3)客土、機械排水、耕地整理等によって三ヶ年に約二百十万町歩土地改良を行う。
 (4)開墾、干拓によって造成された耕地に五ヶ年間に百万戸の自作農を創設する。
 (5)事業完成後の主要食糧増産目標を一千四百万石(米換算)とする。
 
 一方、浜松市は、昭和二十年十一月に帰農者募集を行っている。これによると、①一戸当たり三反歩を開墾するとし、土地は県や市、農業会などが斡旋し貸与する。②住宅は自己建設、自己借入れを原則とする、といった内容である。入植者へは、証明書が交付された(『新編史料編五』 五産業 史料102・109参照)。
 三方原国営開拓建設事業の全体像については、後ほど詳述するため、ここでは、主な開拓地区について述べることにする(『静岡県戦後開拓史』、『新編史料編五』 五産業 史料103参照)。
 
①浜松開拓(浜松市葵町・浜名郡吉野村)
 浜松市葵町の一部と吉野村にまたがった地域で、旧飛行第七戦隊の格納庫・兵舎・誘導滑走路・爆撃場を含む飛行場の付帯地区が開放され、市内の戦災者や旧軍関係者の三百七十八戸の純入植者と九十六戸の増反農家が、二十一年五月に入植した。しかし、長い間非農耕地であったことや土壌が強酸性のため農地開拓には苦労を重ねた。
②萩の原開拓(浜松市葵町)
 浜松開拓の北東部に隣接し、旧軍用地外周道路と、浜松市街地から引佐郡気賀町に至る松並木が残る姫街道に挟まれた地域。もとは県内外の資産家所有の民有地が農地解放され戦災・復員・引揚者と農家の二、三男の四十六戸が入植した。そのため日進開拓組合と姫丘開拓組合に分かれていたが、昭和二十四年十月に合併して萩の原開拓農協となった。入植当時は農耕地を造成するため労苦を重ねたが、昭和三十年ころから稲作栽培が普及していった。
③小豆餅開拓(浜松市葵町)
 三方原国営開拓建設事業の葵工区で、浜松開拓と国道を隔てた東側、浜松鉄道に沿い第一航測連隊の跡に、昭和二十年十月に、周辺地域の農家分戸者五十戸が入植した。この開拓地も、ほかと同様、開墾をするために苦労をしたが、早い段階から農村副業などを取り入れ都市近郊農業を目指した。
④根洗松開拓(浜名郡三方原村)
 三方原国営開拓建設事業地区の中の中川工区で、開拓地の北側道路が引佐郡中川村(細江町)との郡村界、三方原村の北端に位置している。昭和二十年十二月に中川村の村長を組合長にして根洗松開墾帰農組合を結成し開墾が始まった。
⑤百里園開拓(浜名郡三方原村)
 昭和二十三年、旧軍用地跡と民有地に、地元縁故の転業者と農家分戸者が六カ所に分散して開墾した。昭和二十八年には、新たに九戸の入植者を加えて百里園開拓農協を設立した。
⑥平手塚開拓(浜名郡三方原村)
 豊岡開拓の北隣に位置した地区で、もとは帝室御料林の一部が軍用地になっていたところに、昭和二十年に四十一戸が入植した。
⑦遠州開拓(浜名郡三方原村)
 国営開拓の三方原工区に属する農家集団で、地区ではない。もともと三方原開拓農協に参加し工区の中央部に所属していた農家百二十二戸が、昭和三十四年に三方原開拓農協から分離脱退し遠州開拓農業協同組合を設立した。
⑧都田開拓(引佐郡都田村)
 三方原国営開拓の三方原工区北部の外周道路北側に位置している。昭和二十一年ごろ地元縁故の分戸者や二、三男の八十二戸が入植して都田開墾帰農組合を結成した。
⑨白昭開拓(引佐郡都田村白昭)
 昭和二十二年、三十九戸で入植し白昭開墾帰農組合を結成した。彼らの大部分は、もともと浜松郷開拓団の出身者で旧満州黒竜江省鎮東県白昭から引き揚げた人々であった。
⑩豊岡地区(浜名郡三方原村)
 昭和二十一年旧職業各層の五十戸で入植し雲雀ケ丘開拓組合を結成し、旧陸軍飛行観測所の建物を組合事務所とした。昭和二十三年に三方原開拓農協の設立に参加したものの、意見を異にし、四十二名が脱退し豊岡開拓農協を設立した。
⑪川山開拓(引佐郡都田村)
 この開拓地は浜北市貴布祢にある日清紡浜松工場の食糧自給農場として昭和二十年から開墾した。十五戸の引揚者、戦災者、地元の二、三男が雇用農業に従事した。二十七年になって開拓用地に買収され、十四戸の農業従事者が入植者となり、翌二十八年川山開拓農協を設立した。
⑫根本山開拓(浜名郡北庄内村)
 舘山寺の東北東にある根本山の東北麓、南面丘陵地で、昭和二十三年、地元縁故の官吏、復員者ほか九戸の入植と一戸の増反により入植し開墾帰農組合を結成した。
⑬三方原開拓
 広大な三方原開拓地の中央部、戦前は陸軍の三方原爆撃場で、爆弾の投下演習が行われていた。戦後も各所に爆弾が残り、初期の開墾は大変危険な仕事でもあった。また、標高の高いところは井戸も深く掘らねばならず、天水を使う家が多かった。三方原開拓には東曳馬野・赤松・共営・愛隣・豊原・瑞穂・千代田・穂積・上志野・前原・旭原・富岡・辺田原の各地区があったが、ここでは特色のあった共営と愛隣地区を取り上げる。
○共営地区(浜名郡三方原村)
 この地区は、国営事業の当初計画では指導所や試験農場を建設する予定であったが、予算上、実現困難となり農事実行組合に委ねられ、共営と愛隣の二地区が誕生した。共営地区は、社会主義思想に立脚し、一戸当たり二反歩を自由耕作とし、残りは共同経営とした。地区の名称も「共に営む」という考えから付けられた。しかし、この共営方式はうまくいかず、やがて個人経営に移った。
○愛隣地区(浜名郡三方原村)
 この地区はキリスト教社会主義共同体を宣言して発足した。十一戸が完全共同体を軸とした入植で、長谷川保の聖隷保養園と同農場から物心両面の援助があった。しかし、時代の変化とともに個別経営に移行したものの、有畜農業を成功させた。
 
 浜松地域内の開拓地区は、そのほかにも都田東山開拓、三方原北部開拓、富塚開拓、伊佐見干拓など多数に上っている。
 戦後の開拓事業は復興再建の一環として、国策として実施されたが、計画自体綿密な検討に基づいたものでなく、難民救済、失業対策という意味しか持っていなかった。入植者についても農業経験のない軍人や都市戦災者が多く、無計画な入植が行われたため、当初から前途多難であった。さらに資材・資金等の不足、技術の未熟等によって、営農の安定には程遠いものがあった。浜松地域における戦後開拓も、ほかの地域と同様に開拓農民の言語に絶する努力によって推進された。現在、全国有数の都市近郊農業をつくり上げてきたのは、このような開拓農民の労苦の結晶であると言っても過言ではない。