[浜名用水の通水と農業生産の向上]

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【浜名用排水幹線改良事業 農地開発営団 金原明善 金原治山治水財団 金原用排水組合】
 浜名用水は、昭和三年(一九二八)農林省により調査、測量が行われ、昭和十二年に総事業費二百九十七万円をもって県営浜名用排水幹線改良事業として施行されることが決定された。天竜川西岸地域の耕地のうち、上流部は雨水や湧水、地下水の汲み上げに頼っていたため水不足となり、下流部では排水不良のため湿田が多く、二毛作が不可能であった。そのため、この地域の農民の長年の願いが、県営の土地改良事業として実現することになった。ところが、戦争の拡大に伴い昭和十六年に農地開発法が制定され、国家的見地から農業の水利事業と農地造成が叫ばれ、その機関として農地開発営団がつくられることになり、浜名用排水と磐田用水の事業の一部は農地開発営団による天竜川大規模農業水利事業として施行されることになった。この事業によって得られる農産物の増産量は米約一万三千五百石、麦一万三千七百石と試算していた。この工事は戦時下にあっても進み、昭和二十一年には仮通水を迎えた。最終的に完成したのは昭和十二年に起工してから三十年を経過した昭和四十二年三月であった。
 この事業は、もともと金原明善によって計画されたものであるが、財政上の問題で実現できなかった。そこで、明善は明治三十七年(一九〇四)に金原疎水財団を設立し、植林によって得られた資金を用水事業に充てることとした。昭和十三年、県営浜名用排水幹線改良事業の地元負担母体として浜松市外八ケ村浜名用排水組合を設立し、金原治山治水財団(昭和十三年に金原疎水財団の名称を変更)が地元負担金の全額を寄付することになった。そのため加入を保留していた町村も加わり浜松市外十六ケ町村金原用排水組合と改組され、後に金原用排水組合と名称を改めた。このような歴史を積み重ねて完成した浜名用水は、この地域の稲作生産力を大きく向上させたのである。
 なお、浜名用水の三号線からは三方原台地に揚水するための水路が作られ、大型のポンプにより台地に水が送られるようになった。これにより昭和二十七年には台地の農民が夢にまで見た水田が出来た。

図2-33 浜名用水の用排水系統図(1) 浜名用水の用水系統図


図2-33 浜名用水の用排水系統図(2) 浜名用水の排水系統図