敗戦後、日本に進駐し、その管理を始めた占領軍の対日政策は、日本の非軍事化を進めるとともに日本の従来の非民主的諸制度を民主化し、軍国主義の根源を取り除くことによって、日本を平和国家にすることを目標としていた。その一環として、いわゆる農村民主化のための諸政策も、強力に遂行されたのである。言うまでもなく農地改革は、その中で最も重要な意義を持つものであり、これによって日本農業の経済的な構造にも、また農村の社会的構造にも根本的変化が生じたのである。
ところで、この農地改革が戦後どのような経過を経て具体化するに至ったのかを見ると、その概略は次の通りである。最初に農地改革の具体案らしきものが作成されたのは、昭和二十年十月の幣原内閣時の農林大臣松村謙三の手元においてであった。この時に農林省は農地改革の原案を作成した。その骨子は次の通りであった。
(1)小作料の金納化。換算の基準は地主米価とする。
(2)市町村農地委員会の民主的改組。地主および自作農から十人、自小作農及び小作農から十人をあて委員を選挙する。会長は委員の互選とする。
(3)自作農創設。市町村農業会、市町村農地委員会その他のものが自作農創設について地主に小作地の譲渡の奨励を行い、万一地主がこれを承諾しない場合は知事が譲渡命令を発する。政府は土地を譲渡する地主に対し報奨金を支給する。
この農林省農政局の原案は、まだ地主の保有面積には触れていないが、後の第一次農地改革のすべてが考慮されていた。その後、十月から十一月にかけて農政局はさらに極秘裡に農地改革案の検討を進め、十一月十六日にその成案を「農地制度改革ニ関スル件」として閣議に提出するに至った。十一月二十二日、二、三の修正が行われ閣議決定された。十二月五日、改正農地調整法が衆議院本会議に付議されたが、議会の雰囲気は、審議未了でこれを葬り去ろうというところに向かっていた。しかしそこへちょうどタイミングを合わせて、十二月九日総司令部から農地改革に関する覚書(農民解放令)が発せられた。そこで議会もにわかに態度を改め、両院(衆議院・貴族院)で可決し十二月二十八日に公布した。結局この第一次農地改革はGHQの認めるところとならず、実施に移されないで終わった。
第二次改革になると、主役は占領軍に移ることになった。対日理事会は次のような改革案を提示し、この線に沿って第二次農地改革を行うよう勧告した。
(1)二十年十二月九日付マッカーサー元帥の農地改革に関する指令の承認
(2)二十一年三月十五日日本政府提出の農地改革に否認
(3)農地制度改革の最低必須条件としての諸項目の決定
イ、不耕作地主の保有限度は平均一町歩とする
ロ、自作地も含めて土地所有の限度は内地平均三町歩、北海道十二町歩とする
ハ、改革の実施は国が責任を負い、国が地主から買収してこれを農家に売り渡すこと。地主と小作人の直接の売買を禁止する
ニ、農家が農地を買い取るには年賦にすること。小作人の土地買い入れ限度は一町歩とする。
ホ、二十年十二月八日以降の農地の移動は無効とし、農地買収計画はこの日の農地の状態に基づいて樹立すること。
ヘ、農地の交換分合を所有権の移動に並行して可及的に実施すること。
ト、小作関係の法令を強化し、小作契約の文書化を強制すること。
チ、農地改革は二カ年で完了すること。
政府は、この勧告に従い、第二次農地改革の法案の作成に取り掛かり、自作農創設特別措置法案及び農地調整法中改正法律案の二法を国会に提出し、この二法は昭和二十一年十月十一日に成立した。
自作農創設特別措置法及び農地調整法改正に基づく農地改革を推進していく中心的組織は市町村に設置された農地委員会であった。この農地委員会の定数の割合は原則として小作農の代表五十%、地主代表三十%、自作農代表二十%から構成されることになった。農地委員の選挙は、昭和二十一年十二月二十日に全国一斉に実施された。その結果、浜松市を含む西遠地域の農地委員会(総数は四十七)の構成は、小作農二百六十七人、地主百五十八人、自作農百九人、合計五百三十四人となった。浜松市や郊外の町村でも農地委員会が組織され、農地解放という一大事業に取り組んだ。農地解放見込み面積は表2-25の通りである。
表2-25 農地解放見込み面積(西遠地域)
出典:『静岡県農地制度改革誌』より作成
不在地主所有小作地 | 在村不耕作地主所有小作地 | 在村耕作地主所有小作地 | その他の農地 | ||||||||
田(反) | 畑(反) | 地主戸数 | 田(反) | 畑(反) | 地主戸数 | 田(反) | 畑(反) | 地主戸数 | 田(反) | 畑(反) | 地主戸数 |
6,225 | 5,750 | 6,423 | 1,483 | 2,133 | 391 | 12,184 | 9,029 | 3,968 | 381 | 564 | 230 |