【遠州四品 落花生 生姜 糸瓜 トウガラシ】
遠州地方では、もともと米作以外の換金作物の生産が盛んに行われており、いわゆる「遠州四品」と言われる落花生・生姜・糸瓜(へちま)・トウガラシは、戦前から栽培されてきた。この背景には、輸入綿に押され綿栽培が不振に陥ったことや化学染料により藍作が成り立たなくなったことがある。落花生は浜名・磐田・小笠・引佐の各郡で栽培され中国産として海外に輸出されていたが、明治三十七年(一九〇四)の米国セントルイス博覧会に出品したところ名誉大賞を獲得、以来日本産の落花生として輸出されるようになった。生姜は浜名郡北部で多く栽培され、当初海外へはアフリカ産として輸出されていた。しかし明治二十三年(一八九〇)には価格が高騰し日本産として輸出できるようになったが粗製濫造で評価を落とした。海外では食料及び飲料用香辛料として利用されているという情報を得て、それに合わせて製造方法を改良した結果、輸出も回復した。糸瓜は天竜川沿岸で藍に代わる転換作物として栽培されていたが、明治三十三年のパリ万博へ浜名郡から出品したところ好評を博し、以来、主としてヨーロッパへ靴の中敷きや工業原料として輸出されるようになった。トウガラシは伊佐見・北庄内・北浜の各村で栽培されアメリカや香港に輸出されていた。
遠州四品は、戦時中に壊滅的打撃を受けたものの、戦後再び栽培熱が高まった。これらの作物は耐暑性が強く洪積台地という悪条件にも比較的適しており、栽培しやすいという長所を持っていた。戦後、糸瓜栽培の中心は浜名郡笠井町・北浜村・積志村・浜名町・長上村で、輸出先は欧州各国とアメリカであった。昭和二十年代の後半になると、輸出不振や値下がりのため生産量も減少していった。トウガラシは浜名郡伊佐見村・神久呂村・引佐郡都田村などが主産地で、昭和二十八年の作付け面積は二十町歩で、十五万斤(九十トン)を収穫した。市場での価格も堅調で、アメリカやセイロン(今のスリランカ)などへ輸出され、遠州四品の中では一番有望視されていた。生姜は浜名郡北庄内村・北浜村・引佐郡都田村が主産地で約百町歩を作付けし、五十万貫(約千八百七十五トン)を収穫しているが、国内需要では価格変動が激しく、また輸出作物としては先行き不安が大きいため、後退傾向にあった。落花生は浜名郡篠原村、村櫛村、南・北庄内村、雄踏町、引佐郡引佐町などで約四百町歩を作付けし、千五百石(二百七十立方メートル)を収穫していた。輸出はほとんど行われなくなり国内需要一本になっていた。