[製塩と地引網]

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【製塩事業 地引き網漁】
 戦争中、塩は極端に不足したため、昭和十九年五月、政府は専売制にもかかわらず、自家製の塩や苦汁の製造を届出制とした。これにより県の指導もあって舞阪町を中心に塩田を作り製塩が行われ始めた。浜松周辺では五島・篠原・舞阪・南庄内・知波田・村櫛・和地・飯田の八カ町製塩事業村が塩田を造り本格的に製塩事業に乗り出し、かなりの製塩を行っていた。昭和二十一年には弁天島の北方の湖面を埋め立て(現在の渚園)、雄踏町ほか二十一カ町村の共同経営による大規模な製塩所を建設し、年間五千トンの製塩を目指した。しかし二十二年三月に稼動したものの、同年五月三十一日に火災が発生、製塩施設は焼失した。その後、各地で製塩が盛んになったり、塩の輸入が増えていったため施設は再建されなかった。
 戦後、働き手が次々に復員し、食糧不足も手伝って地引き網漁も再開された。しかし、戦争による漁業環境の荒廃、物不足、資金不足などにより、漁獲量は戦前の水準に遠く及ばなかった。朝鮮戦争を契機とした経済復興に伴い、働き手はより安定した収入が得られる企業等へ就職する者が増え、地引き網漁の後継者も減少していった。江戸時代から長い間続いてきた地引き網漁は二十年代後半になると、機械船の発達や漁業税の導入などにより、その幕を閉じた。