[うなぎ養殖]

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【服部倉治郎 中村源左衛門正輔 鰻養殖 浜名湖養魚漁業協同組合 浜名湖食品】
 浜名湖は鰻の養殖で全国的に有名であるが、その養鰻業の創始者は服部倉治郎で、東京の魚問屋で淡水魚養殖などを手掛けていた人物である。明治三十年(一九八七)、服部倉治が東海道線の車窓より浜名湖沿岸を鰻養殖の適地と認め、明治三十三年雄踏村の中村源左衛門正輔(大門正輔日本水産会水産伝習所を卒業し、養鰻に深い造詣を持っていた。)と共同で七ヘクタールの養鰻場を造ったことに始まった。大正に入ると開墾助成法や公有水面埋立法の公布により、鰻の養殖業は一層盛んになった。昭和の初期には、浜名湖湖岸の養殖池は六百ヘクタールに及び、鰻養殖の全盛時代を迎えた。しかし、統制経済に突入すると餌料不足のため休業状態に陥った。
 戦後になると、食糧難から養鰻池は次々に埋め立てられ、わずか二十ヘクタールまで減少した。しかし、昭和二十三年ごろから急激な復興が始まり、二十四年の水産協同組合法に基づき浜名湖養魚漁業協同組合が結成され(昭和二十四年十月十日設立登記)、戦後の消費の伸びと市場の拡大によって浜名湖の養鰻業が復興していった。本格的復興は二十五年ごろで、餌であるイワシの豊漁による価格低下により、養鰻業再生のきっかけとなった。その後、浜名湖食品会社はカキの缶詰やうなぎの蒲焼缶詰の輸出を始めるようになり、ドル獲得のために一役買うことになった。