[バラック駅舎からの出発]

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【バラック駅舎 乗車人数の急増】
 終戦直後の昭和二十年八月二十五日夜、雨の中を満員の列車で復員した少年兵は、浜松駅の様子を次のように回想している。最初は「田んぼの中」に停車したと勘違いするほどであった。駅と気付いて列車を降りようとすると「足元にはプラットホームがあり、ホームの先には雨に濡れた駅舎らしい小さな建物が、裸電球に光っている。れっきとした浜松駅構内であった。ただし、ホームには電灯もなく、屋根もなく、ただその支柱だけが飴のように曲がったまま残って、折りからの土砂降りの雨水が、音をたててホーム全体を洗っていた」。そして、仮の板囲いの狭い通路を、トタンを打つ雨音だけにせかされて、出口に向った(『浜松戦災資料展』平成七年)。
 空襲で焼失した浜松駅は、焼け残った木材、トタン等によって応急的に修復されたバラック駅舎で戦後を出発しなければならなかった。バラック駅舎は、後述するように悪条件の中で急増する買い出し等を目的とする一般乗降客と復員者・引揚者等の受け入れに対応するとともに、地域の物流拠点としての役割を担った。浜松駅の乗車人数は、昭和十四年に約二百五十万人であったが、二十年には約四百万人に、二十二年には約五百七十万人に急増した。ただ交通の混雑は深刻で、バラック駅舎の前には切符購入券を獲得しようとする人々の長蛇の列ができ(『静岡新聞』昭和二十二年三月十日付)、構内には滞貨の山が築かれた。

図2-37 バラック駅舎