[浜松駅移転構想と新駅舎]

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【運輸省構想 電化優先 新駅舎の落成】
 応急的なバラック駅舎の改築が急がれはしたが、この問題は長年にわたって懸案となっていた高塚駅及び天竜川駅に向かって大きく曲線を描く路線の直線化と、それに伴う駅舎の南への移転・高架化、駅前広場の拡大、そして旅客駅と貨物駅の分離問題などと合わせて考えられていた。浜松駅の移転構想は、すでに昭和二十年九月ごろから運輸省で立案され、移転位置が決まると、二十一年から三カ年計画でまず操車場の工事が行われることになった。こうした運輸省の構想は、もちろん浜松市の復興事業及び都市計画事業にも取り入れられ、それを前提として駅前周辺の街並みや道路の整備が計画されていくことになる。
 当初計画よりやや遅れて、昭和二十二年に入ると浜松駅の大掛かりな改築の一部として操車場の着工が新聞等で伝えられた。ところが同年、後述の東海道本線の電化が現実味を帯びてくると、運輸省は電化実現を優先させることに方針を変更した。そして、計画を主に浜松駅の改築のみに限定して、浜松駅移転とそれに伴う路線変更・高架化を中止し、従来の路線をそのまま使用することに正式決定した。こうして同年十月二十日から待望の浜松駅の新築工事が始まったが、運輸省はこの新築工事を、将来、浜松駅移転に伴う本駅舎が出来るまでの中間復興的なものであると位置付けていた。
 いずれにせよ昭和二十三年十月十六日に新駅舎の落成式が盛大に挙行され、同十八日から使用を開始して、ようやくバラック駅舎に別れを告げることが出来た。新駅舎は、総工費六百万円、木造二階建て、赤い屋根とクリーム色の外壁で、中間復興的新駅舎とはいえ、当時としては非常に頑強で立派なものであった。以後、三十一年間にわたり浜松の玄関としての役割を果たすことになる。

図2-39 浜松駅と駅前バスターミナル

 なお、昭和二十五年には、浜松市は都市計画事業と併行して浜松駅の移転及び高架化について関係方面に運動したが実現には至らなかった。これが実現するのは約三十年後の昭和五十四年十月のことである。