電化は、国鉄の輸送力増強、スピード・アップ、サービス向上、経営合理化の象徴となった。東京─浜松間の電化完成後の昭和二十四年九月十五日には大幅なダイヤ改正が行われ、東海道本線では急行が定期三往復から夜行も含めて七往復となり、五年ぶりに特急列車(愛称「へいわ」、翌年一月一日に「つばめ」と改称)が復活した。また、二十五年三月には湘南電車が東海道本線に登場(後述)、五月には「つばめ」の姉妹列車「はと」の運行が開始された。また十月には「つばめ」・「はと」の東京─大阪間八時間運転が実現した。電化後しばらく貨物列車の多くは蒸気機関車が牽引したが、浜松駅は急行列車や特急列車などを牽引する電気機関車と蒸気機関車の付け換え駅として東海道本線の拠点駅となった。
表2-37 昭和25年10月1日時刻表改訂時の浜松発車時間及び浜松到着時間
出典:日本交通公社『時刻表』十月号 (JTB『時刻表』復刻版 戦後編1 1999年12月1日発行所収)より作成
注:*印は着時間。
東海道線上り | 東海道線下り | ||||
運行区間 | 浜松発時間 | 備考 | 運行区間 | 浜松発時間 | 備考 |
浜松-東京 | 5:20 | 東京-湊町・鳥羽 | 3:48 | 急行 | |
浜松-東京 | 5:55 | 東京-大阪 | 4:30 | ||
浜松-静岡 | 6:15 | 浜松-富山 | 6:05 | ||
豊橋-東京 | 7:03 | 静岡-大阪 | 7:15 | ||
門司-東京 | 7:55 | 静岡-豊橋 | 7:56 | ||
名古屋-東京 | 9:00 | 沼津-上郡 | 9:12 | ||
米原-東京 | 10:30 | 国府津-浜松 | 10:06* | ||
米原-東京 | 12:10 | 東京-大阪 | 11:05 | ||
長崎-東京 | 11:53 | 急行 | 東京-大阪 | 12:15 | |
京都-東京 | 13:30 | 東京-熊本 | 12:40 | 急行 | |
大阪-東京 | 15:10 | 東京-大阪 | 12:36 | 特急 | |
大阪-東京 | 13:22 | 特急 | 東京-京都 | 14:44 | |
鹿児島-東京 | 14:26 | 急行 | 東京-鹿児島 | 14:20 | 急行 |
豊橋-東京 | 16:16 | 東京-米原 | 15:33 | ||
大阪-東京 | 17:15 | 東京-大阪 | 16:07 | 特急 | |
熊本-東京 | 15:41 | 急行 | 浜松-大垣 | 16:30 | |
浜松-掛川 | 17:50 | 東京-米原 | 17:23 | ||
大阪-国府津 | 18:30 | 東京-米原 | 18:44 | ||
大阪-東京 | 16:51 | 特急 | 東京-長崎 | 17:19 | 急行 |
富山-浜松 | 19:25* | 静岡-浜松 | 19:02* | ||
大阪-沼津 | 20:32 | 東京-豊橋 | 19:40 | ||
米原-浜松 | 21:20* | 東京-門司 | 20:31 | ||
大阪-東京 | 23:14 | 東京-豊橋 | 21:45 | ||
大阪-東京 | 0:46 | 東京-浜松 | 23:22* | ||
湊町・鳥羽-東京 | 1:22 | 急行 | 東京-大阪 | 0:14 | 急行 |
大阪-東京 | 2:12 | 急行 | 東京-大阪 | 1:25 | 急行 |
広島-東京 | 2:36 | 急行 | 東京-博多 | 1:44 | 急行 |
大阪-東京 | 3:05 | 急行 | 東京-大阪 | 2:24 | 急行 |
博多-東京 | 3:49 | 急行 | 東京-広島 | 2:15 | 急行 |
大阪-東京 | 4:10 | 急行 | 東京-大阪 | 3:20 | 急行 |
注:*印は着時間。
電化を記念して、浜松市では商工会議所との共催で昭和二十四年七月一日から十日間にわたる、浜松電化祭が開催された。商工人野球大会、古橋選手を迎えての学生水泳大会、広告仮装行列、市内循環駅伝競走、拳闘大会、納涼演奏大会、素人芸能大会、和洋舞踊大会、NHK全国番組「私は誰でしょう」の中継などの行事が連日開催された。
この浜松電化祭は成功裏に終わったものの、東京─浜松間正式開通の昭和二十四年六月一日に公共企業体として再出発した日本国有鉄道は、合理化の一環として約九万四千人に及ぶ人員整理を断行した。くしくも浜松電化祭、真っ最中の七月四日に第一次、七月十三日に第二次整理人員が発表された。『静岡新聞』は、第一次で浜松地区百十名、浜松工機部四百七十六名(七月六日付)、第二次では、浜松地区五百七名、浜松工機部百五名(七月十五日付)と報じた。国鉄の合理化は、電化、スピード・アップと人員整理という形で進み、その明と暗を浮き彫りにした。
なお、浜松電化祭が前年の復興浜松商工祭に続いて成功を収めると、市民の間から浜松の行事として新しい祭りを望む声が高まった。こうして伝統的な凧揚げと結び付いた浜松まつりが生まれることになり、昭和二十五年五月一日~五日に第一回浜松まつりが開催された。
また、機関車の付け換え駅となった浜松駅のホームでは、付け換え時間を利用したユニークな光景が見られるようになった。一つは、昭和二十四年三月から開始された日本楽器製造株式会社の女子社員(通称ハーモニカ娘)によるハーモニカの駅売り、もう一つは特急の五分間の停車時間を利用して二十六年六月から始まった竹山朝生によるラジオ体操であり、いずれも東海道本線の名物になった。ラジオ体操は二十八年七月二十一日の浜松―名古屋間完全電化の前日限りでその姿を消すことになるが、ハーモニカ娘は以後約二十年にわたって浜松駅ホームで活躍することになる(『新編史料編五』 六交通 史料29・32)。
図2-42 浜松駅ホームでのラジオ体操