[史上最多の利用客]

286 ~ 286 / 900ページ
 二俣電車線の乗降客数は、創立年度の昭和十八年度は二百三十万人(昭和十八年十一月~昭和十九年三月)であったが、十九年度には七百八十万人、二十年度には一千万人を超えてピークを記録した。同年度は、国鉄浜松駅を上回る乗降客であった。これは、都市の住民が深刻な食糧難の下でわずかに残った持ち物を食糧に換えるために農村へ押し寄せ、また地域住民がやみ市に殺到した結果でもあった。『遠州鉄道40年史』(昭和五十八年)は、当時の様子を次のように振り返っている。
 
   やむなく、窓ガラスに板を打ち、シートのほころびをあて、車体に応急修理を施した。乗客は各駅に殺到し、早朝から夜遅くまで戦争の急迫した時期をしのぐ混雑ぶりとなった。二俣方面や沿線の各地域から、たった一筋の二俣電車線にすがりつくようにして利用する日が続いた。

図2-44 二俣電車線の混雑(『鉄道ピクトリアル』昭和40年1月号より)