浜松鉄道(東田町─奥山間)は一連の空襲により、本社、本社倉庫、東田町駅、元城駅等が全焼、保有車両の約半数に当たる、十五両が大破または焼失するという被害を受けた。特に昭和二十年六月十八日以降、本社機能及び機関庫を気賀口駅に移転して営業を続行したが、主に機関車二両、客車七両、貨車六両で、上池川─奥山間を三往復するにとどまった。ほかにガソリン車もあったが、燃料不足のためほとんど利用されなかった。
戦後は、十月中旬までに元城─奥山間、十二月中旬からは東田町─奥山間の運転を再開した。また、応急復旧により昭和二十一年四月には本社、東田町駅、元城駅の仮建築が完成、同年五月までに被害を受けた機関車三両を修理、新たに機関車一両、客車・貨車各一両を購入して、東田町─奥山間を一日六往復とした。
図2-45 東田町・曳馬野間の電車
しかし、同社保有の機関車は、大正年代製のもので老朽著しく、牽引力が相当に減退していた。同社には輸送力増強のための余力はほとんどないと言ってよかった。このため戦災により沿線に移転した学校の生徒や一般住民等の利用に対応できない状態であった。しかも、石炭問題は深刻で供給不足と粗悪化のため、運行に支障を来たすこともたびたびであった。
なお、『浜松商工会議所六十年史』(昭和二十九年)によれば、昭和十四年の奥山線の乗降客数は約六十五万人で同二十一年には約百二十一万人へ増大したが、二俣電車線の乗降者数の約八分の一程度であった。
表2-38 遠州鉄道(株)鉄道線旅客輸送人数の推移
出典:遠州鉄道株式会社『15年の歩み』より作成
注:昭和18年度は11月から19年3月まで。
年度 | 二俣電車線 | 奥山線 | 合計 |
人 | 人 | 人 | |
昭和18 | 2,305,695 | 2,305,695 | |
19 | 7,802,129 | 7,802,129 | |
20 | 10,575,004 | 10,575,004 | |
21 | 9,488,282 | 9,488,282 | |
22 | 9,937,343 | 1,464,097 | 11,401,440 |
23 | 7,715,819 | 1,285,911 | 9,001,730 |
24 | 7,111,426 | 1,099,307 | 8,210,733 |
25 | 6,668,312 | 2,146,093 | 8,814,405 |
26 | 6,663,303 | 2,674,551 | 9,337,854 |
注:昭和18年度は11月から19年3月まで。