【乗客はすし詰め状態】
戦災で焼け出された市内の学校が郊外の旧軍施設に移転・開校した。これらの学校へ通う生徒や学生が利用するため追分町線は毎回乗客を収容できなくなり、昭和二十一年十月六日から運行回数を十五分間隔、一日四十三往復に増加した。こうして市営バスは、燃料やタイヤ・チューブ等の不足に苦しみながらも、市街地の復興とともに順次路線を再開していくことになる。しかし、輸送能力は利用者の急増になかなか追い付かない状態であった。このため、当時としては市営バスに限ったことではないが、バスは駅前をスタートする時点からすし詰め状態で、乗客は身動きすら出来ない状態である、と『静岡新聞』昭和二十二年三月十日付は伝えている。
昭和二十二年八月一日からは東廻線と北廻線の一部の折り返し運転と中田島線の運転が再開され、同年九月にようやく、戦前からの路線である西廻線、東廻線、北廻線の三路線については、以前と同様に循環線として運行するようになった。また、佐鳴湖線についても二十四年七月一日から年間三カ月間のみの季節路線であったが運行を再開した。