[右側通行]

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【右側通行 右側通行の中止 左側通行 対面交通の採用 右側通行 人は右 車は左】
 大正十年(一九二一)一月に施行された日本初の道路取締令の第一条には「道路ヲ通行スル者ハ左側ニ依ルヘシ」と規定していた。ただ、人も車も左側通行と定められたのは、明治十四年(一八八一)の警視庁通達と言われている。こうした事情から、戦前から終戦直後にかけての日本では、基本的に人も車も左側通行であった。人と車の対面交通が確立されておらず、かつ道幅が狭く未舗装の道路が多かった。こうした道路整備の遅れや交通取り締まりの不徹底は、交通違反、交通事故の増加にもつながり、連合国軍の現地司令部にとっても悩みの種であった。
 こうした事態に対して、連合国軍総司令部(GHQ)は、可及的速やかに歩行者の右側通行を実施するよう命令した。これを受けて浜松では、昭和二十一年七月十九日、藤岡浜松市長から町内会長あてに「歩行者右側通行実施に関する件」を通知した。しかし、連合軍による右側通行の指示は不徹底であったため、逆に交通秩序に混乱を生じた。内務省はしばしば右側通行の中止を申し入れ、二十二年十二月には再び左側通行に統一されることになった。このため、二十三年一月、新憲法の下、道路交通取締法が施行されるが、同法第三条は従来どおり「道路を通行する歩行者又は車馬は、左側によらなければならない。」と規定していた。
 しかし、日本の交通事情はもはや人も車も左という原則に対して、抜本的な見直しを迫るまでに悪化していた。昭和二十三年八月にはGHQから再度、対面交通の採用について示唆があった。こうして、二十四年十一月施行の改正道路交通取締法第三条に「道路を通行する歩行者は、右側に、車馬は、左側によらなければならない。」と改正され、同月一日「人は右、車は左」がここに確立することになった。この間、浜松でも児童・生徒・学生や一般歩行者に対する交通指導は左側通行と右側通行が二転三転し、混乱を招く結果となった。

図2-48 歩行者右側通行徹底の通知