[茫然自失の日々からの脱出]

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【内山栄一 鈴木良】
 終戦直後の人々の行動を見ると、浜名郡北庄内村舘山寺にあった陸軍の秘密兵器開発にかかわる部隊の将校がピストル自殺をしている例があるが、多くの浜松市民は茫然自失の日々を過ごしたようである。浜名郡五島村に住んでいた内山栄一(当時は、県立静岡中学校教員。後の浜松市立西部中学校初代校長)は、「敗戦日本の姿を現実に見てより、あらゆる熱意は冷却し去ったされど茫然自失の害悪甚大なるを知り、今日より敗戦日誌をものせんとす」と昭和二十年(一九四五)九月五日の夜に記している(『新編史料編五』七社会史料3)。市民の多くは、敗戦のショックから立ち上がり、それぞれ、逼迫(ひっぱく)していた自分自身や家族の衣食住の確保のため、自らを励ましながら生活と生産の再建のために働き出している。疎開者は農山村に別れを告げ、焦土の浜松に帰り、防空壕や廃材を組み合わせたバラック住宅であっても、一日も早い家屋の復興に向けて、家族総出で取り組むことになった。
 北国民学校教員の鈴木良は浜松大空襲約二カ月後の昭和二十年八月二十四日に自宅の焼け跡に戻り、幹だけがただれた黒い肌をまともに日光にさらしている樹々の根本に青々と芽ぐんだ再生の力を見たと記し、続けて「…神明町の坂をのぼりかけるとここにも又同じ慨感をもたせる並木の芽ぶきがあった。」と書いている。この街路樹からの芽吹きに浜松市民は大きな教訓を得て、力強く復興に取り組んでいったのである(『新編史料編五』七社会 史料2)。