[市民の価値観の変化と占領政策]

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 復興にいそしむ市民の道徳観念は、終戦の前と比べどのように変化したのであろうか。終戦の数カ月前から、浜松市民は新聞報道により、東京・名古屋等の日本各地の都市が米軍による空襲で壊滅しつつあることを知り、自らと家族の命を守るために、命令が無くても、防空壕づくりに精を出し、疎開を急ぐ人々が出始めていることが鈴木良の日記に見られる。国家のため、公のための助け合いよりも、個人が生きるための行動が大切という価値観も生まれつつあったようだ。昭和二十年八月十五日の終戦は、終戦直前に生まれつつあった個人主義、国家の政策へ疑問を持つという考え方に、さらに拍車を掛けることになったようだ。そして、血縁者を頼って疎開した都市生活者への、血縁でない農山村の人々からの冷たい扱いもあったようだ。しかし、このような個人主義や軍国主義批判の考え方は、同時に連合国軍の占領政策の一部でもあった。具体的には軍人の遺族に対する扱いにそれがうかがえる。谷島屋社長の齋藤義雄は、祖国防衛のために命を投げ出した若人の遺骨は戦前には「手厚く取扱はれ、無言の凱旋とさへうたはれて、国家、市町村、隣保の人々から至高の敬意を表はされ」たが、終戦以降は、「すべての取扱は簡素になり、遺骨受取りの人かずにも制限を受け、行列は禁止せられ、果ては僧侶の読経さへも遠慮させられ、遺族の人々は肩身せまく、人目を憚かりつつ裏道を急ぎ自宅へ持ち帰ると云ふみじめさに変り果てました。」と記している(『寂光』齋藤時雄の想ひ出)。