[連合国軍への対応の変化]

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【進駐軍 浜松銀行集会所 不法将兵】
 名古屋を中心に各地に収容されていた連合国軍の捕虜二千数百名(数は報道により大きな違いがある。)は、伊勢湾に機雷が敷設されていたため、アメリカの艦船が名古屋港に入れず、遠州灘の新居海岸から引き揚げることになった。その準備のためアメリカ海兵隊が浜名郡新居町に上陸、引き揚げは昭和二十年九月四日から九日にかけて行われた。突然の捕虜到着で町当局の住民への説明が不足し、日本人の心構えが出来ていなかったこと、言葉が通じないことからくる誤解などが影響してか、アメリカ兵の略奪が新居町を中心に湖西地方で四十二件も起こったと『静岡新聞』は伝えた。
 九月に入り、浜松にも進駐軍の兵隊がやってきた。米軍は市街地でわずかに焼け残った欧風の建物である浜松銀行集会所(栄町)を接収し、爆破処理班数名が常駐し、武器の接収や爆破作業をしていた。この進駐軍による戦車や武器等の爆破処理や運搬については労務提供が課せられ、浜松市長は町内会長あてに「進駐軍労務供出ニ関スル件通牒」を出している(「早出町自治会文書」)。また、時々憲兵も来ていた。
 連合軍の静岡県への進駐第一陣は昭和二十年九月十日、駿東郡富士岡村の旧陸軍部隊跡に入った。浜松進駐のうわさは十月下旬ごろから出始め、十一月に入ると、浜松へは千四百名の将兵が進駐するということになった。浜松市長は十一月二日付で浜松警察署長からの「進駐軍ニ関スル件」の通知を各町内会長に出し、町民一般に至急通知してほしいと依頼した。内容は「自動車ハ連合軍自動車ヲ追抜カナイコト」、「濫リニ連合軍将兵又ハ自動車等ニ接近シタリ或ハ物珍シゲニ集ツテ見物シナイコト」などが挙げられていた。同年九月四日の新聞には「不法将兵に対しては最後的抵抗し噛みつくか、引掻くとか肩章をもぎとるとか証拠となるべきものを残すこと」と内務省当局からの注意事項が記されていたが、前述の市長の通知には、不法将兵への対応には「進駐軍将兵ニ依ル事故発生アリタル時ハ直ニ警察署ニ届出ルコト」とあるのみであり、進駐軍への対応のトーンが変化している。ただ、連合軍兵士の浜松進駐は十一月六日になって中止され、磐田町に進駐した。進駐軍兵士と市民の間のトラブルは多少あったようだが、検閲下にあったため、報道されなかったようだ。市民の進駐軍への反応はやがて落ち着いていった。