[占領下の市街と生活]

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【ローマ字の看板 サマータイム 川上嘉市】
 街には進駐軍のジープが走るようになり、あちこちにローマ字の看板が立てられるようになった。商店や劇場、学校の名称は英文併記や英文だけのものもあった。鉄道の踏切にも「RAILROAD CROSSING」と書かれた標識が立てられた。西部中学校の昭和二十四年度の卒業アルバムには学級表札が全文英語で記された写真が出ている。市内の小学校には英文のラベルが貼られたみかんのジュースや英文のカードが入った甜菜(てんさい)の乾燥野菜が給食用に配られたが、小学校の教職員には英文を読める人がいなくて難渋したようだ。また、進駐軍の専用列車が浜松駅の西側にあった平田(なめだ)踏切付近で徐行する際、兵士たちがチョコレートやキャンディを線路にばらまき、それを子どもたちが群がって拾う光景がしばしば見られた(西部中学校第二回卒業生中村辰雄)。
 政府は昭和二十三年五月の第一土曜日から、朝の時間を有効に使おうとして全国でアメリカ式のサマータイムを導入し、時計の針を一時間進めることにした。これには一長一短があり、新聞にもその影響が数多く記されている。期間は九月の第二土曜日までで、四年間実施された。ただ、日本人の多くはこの制度にはなじめず、日本が独立を回復した昭和二十七年度からは廃止された。
 浜松においても占領下ではアメリカ化の傾向が強くなっていた。昭和二十四年一月、浜松商工会議所会頭の川上嘉市は国際基督教大学設立に向けての募金協力を会員に求めている。その趣意書には「…御承知の通り終戦以来諸事万端好むと好まざるとに不拘ずアメリカ化の傾向を辿り商工会議所の運営に就ても例外なく戦前の強制加入団体の旧殻を脱しここに任意加入に依る民主的経済団体として再発足した次第でありまして事業面に於てもアメリカに倣ひ商工業は勿論社会教育宗教等の分野に迄拡張致しました」とし、さらに、外資導入その他両国の一層緊密な橋渡しになると考えて国際基督教大学建設の募金を始めたと記している。続けて、二十六年三月に浜松市役所・浜松商工会議所・静岡県西遠地方事務所・静岡県新聞協会西部支部は、浜松市公会堂大ホールでアメリカ事情講演会を開いた。講師にはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)関東民事部報道部長や関東民事部報道部の二人のほか、日本の新聞社の三人の名前が記されていた。