[配給・買い出し・家庭菜園]

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【配給 食糧営団浜松出張所 買い出し タケノコ生活 買出列車 家庭菜園】
 日中戦争の長期化に伴い、昭和十五年九月から実施された生活必需品の切符による配給制度の下、米は一人一日二合三勺(約三百四十五グラム)の配給となっていたが、空襲の激化の中、二十年七月、滞りがちであった配給が一人一日二合一勺になっていた。敗戦後の二十年の秋、主食である米は平年より三割減の収穫という明治以来の大凶作となり、供出実績は予定量の二十三%にまで落ち込んだ。このため、主食の配給は米二割、代替品八割という状態となってしまった。政府は農民に対して農具や肥料の特配などをして食糧の供出を呼び掛けたが、その成績は上がらなかった。敗戦直後は食糧の輸入は出来なかったこともあって、さつまいもやじゃがいも、雑穀はまだ良い方で、家畜の飼料にもならない大豆の粕までが代用食として配給された。二十一年六月下旬、食糧配給を取り仕切っていた食糧営団浜松出張所管内の主要食糧保有米は後二日分を割るという深刻な事態となっていた。そこで、配給の基準量をさらに減らして一人一日一合九勺とした。このような食糧危機の中で、大都市では餓死する人が出るようになり、浜松地方でも野荒しをしたり、児童が友達の弁当を盗むということも頻繁に起こってきた。
 このような食糧不足を打開するために、市民は田舎の縁故などを頼り、東海道本線や遠州鉄道、浜松鉄道沿線の農村地帯に買い出しに出掛けた。敗戦後の混乱で列車の本数が少なかったため、どの列車も乗客がひしめいていた。農家を訪ねて食糧を買い入れる場合、農家は現金では売らず、高級な着物などとの物々交換が常識であった。このため、市民は着物への愛着を絶ち切り、一枚一枚はいで食糧に変えていくという〝タケノコ生活〟を送らざるを得なかった。昭和二十一年二月の新聞記事(『新編史料編五』七社会 史料12)によると、買い出しにはプロのブローカーも暗躍していたことが分かる。彼らは東海道本線の高塚駅を根城に付近の農村から農作物を買い出していたが、後には地元の悪質ブローカーを手先に使って甘藷などを法外な値段で買いあさるようになった。警察はこれらの取り締まりに当たるとともに、買い出し列車での取り締まりも行うようになった。
 なお、当時の県内の買い出しについて地理学の立場からまとめたものに静岡第二師範学校教官・井出栄二の「東海道買出行進曲」(『わが郷土静岡県』昭和二十四年七月発行)がある。この調査は昭和二十一年四月から同二十二年三月までの一年間の東海道線各駅での調査によるものである。それには次のようなことが記されている。
 
 一 県内の買い出し最盛期は昭和二十一年四月から二十二年三月までの一年間であった。
 二 甘藷買い出し最盛期の昭和二十一年十一月と十二月には俗に「買出列車」といって、貨車を客車に代用した短い編成の列車が運転された。
 三 米の買い出しが主体の東北地方や日本海沿岸の地方と違い、静岡県は甘藷や馬鈴薯の買い出しが主体であった。
 四 甘藷の買い出し時期は十月から十一月にかけてが最も多く、次いで翌年の三月下旬もにぎわう。馬鈴薯は五月末から六月であるから、甘藷がなくなったころで都合がいい。
 五 塩とみかんの買い出しも見られた。
 六 野菜は都市の小面積の土地でも作れるので、甘藷や馬鈴薯に比べると買い出し人は少なかった。
 
 なお、昭和二十年十月二十四日の『静岡新聞』には「けふから買出し列車」という見出しの下、十一両の有蓋貨車からなる臨時列車が静岡・浜松間に運転されることになったと出ている。
 極端な食糧不足により、市街地に住む人々も自力で食糧を作り始めた。それは敷地内に蔬菜(そさい)を作ったり、さつまいもを植えることであった。昭和二十一年八月には市内各地で家庭菜園講習会が開催された。目的として「食糧危機突破の一方策として自給蔬菜の増産を計るため」となっており、秋冬野菜の栽培法や蔬菜病虫の防除法などについての話があった。ただ、家庭菜園であっても二畝(せ)(約二アール)以上の菜園は供出の対象とされ、市民の不興を買った。