[食糧難と米よこせ大会]

316 ~ 317 / 900ページ
【欠配 ガリオア ララ 遅配 米よこせ大会】
 昭和二十年産米の大凶作は翌年に入って食糧不足をいよいよ深刻にした。浜松でも七月から欠配が始まり、カボチャやサツマイモが主食となることもあった。しかし、アメリカのガリオア(占領地域救済資金)やララ(アジア救済連盟)などによる小麦などの食糧援助や好天による甘藷や米の生産が増加し、二十一年の端境期をようやく乗り切り、十一月一日からは一人一日二合五勺(三百六十グラム)に増配されるまでになった。ところが、十一月四日付の新聞は魚・野菜・果物などの副食の配給途絶を報道しているように、食糧難の深刻さはなかなか改善できなかった。これより前の九月二十四日の新聞報道では「大漁でも買へぬ浜松市民の歎き」の見出しの下、秋サバ・ボラの大漁シーズンにもかかわらず、やみ商人がほとんどを買い占め、そのおこぼれを漁村の女・子どもが市内の家庭にやみ売りをしている状況を述べている。このような状況は昭和二十二年四月になっても変わらず、よい魚の九割はやみの業者に流れ、やみ値は公定価格の五~十倍にもなっていた。同年の五月にはまた前年のように食糧事情が緊迫、遅配が深刻化した。浜松市立西部中学校では五月十七日から食糧事情の悪化によりやむを得ず午前中で授業を打ち切ることにした(『西中史苑』)。
 浜松市内の遅配は昭和二十二年六月になって十日前後となり、ついに六月三日、遅配が最も深刻だった砂山町配給所管内で、町内会代表三十人が集まって県下で最初の米よこせ大会が砂山町公会堂で開催された。大会では一日も早い遅配の解消とこれからの見通しを説明せよとの要求が出された。これに対して食糧営団ではグリンピース、押し麦、小麦粉など、手に入るものはすぐにでも配給し、遅配解消に努力すると答えていた(『新編史料編五』 七社会 史料27)。食糧危機はこの後も続き、西部中学校で「食糧事情好転、正規の授業に復す」となったのは同年九月二十二日のことであった(『西中史苑』)。