浜松には大きなやみ市が二つできた。一つは国鉄浜松駅から遠州鉄道の遠州浜松駅を結ぶ板屋町(広小路)の大通りであり、二つめは国鉄浜松駅前であった。この駅前のやみ市は後に田町の通り(今の静岡銀行浜松営業部付近)に移った。前者は昭和二十年八月二十一日に西鹿島からの電車が遠州浜松まで運行されるようになり、買い出しの人々が行き来する二つの駅の間がやみ市となったと考えられる(遠州鉄道が国鉄浜松駅前の旭町駅まで全線開通するのは昭和二十二年六月一日)。
穀倉地帯であった浜名や磐田の平野を控え、また、漁港のある舞阪や新居などに近い浜松はやみの温床地であった。本来なら統制品で配給に回されるはずの米・麦・甘藷・馬鈴薯をはじめ、野菜・魚・布などがブローカーやかつぎ屋、なかには少年や少女、学童などによって浜松に運ばれてきた。警察はこれらの物資を運ぶ途中の列車内で違反者を取り締まった。昭和二十二年三月ごろの浜松・新居・気賀の三警察署が検挙した件数は一カ月二百五十件を下らないほどであった。取り締まりはすべての列車ではないため、やみの物資はやみ市にあふれ、公定価格による配給ではほとんど手に入らない品物が、やみ市では何でも買うことが出来た。昭和二十二年五月の新聞記事(『新編史料編五』 七社会 史料26)によると、ボール三十円、ミット二百五十円、グローブ二百円などと書かれており、野球熱の復興が垣間見られる。なお、やみ市のバラック造りの店は大通りの車道と歩道部分にまたがって並んでいたことが当時の写真からうかがえる。
図2-51 浜松のやみ市