[やみ市の衰退と商店街の復興]

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【露天街 GHQ静岡軍政部 カリソン やみ市撲滅 浜松商店界連盟】
 にぎわっていたやみ市も、急激な物価上昇を食い止めるために発動された金融緊急措置令(昭和二十一年二月公布)の新円切り替えによる通貨の収縮などで一時的不振を来したが、その後のインフレ激化の中で再び繁栄を取り戻したかに見えた。しかし、昭和二十二年三月以降は次第に下火となり、同年五月九日付の『静岡新聞』によると、露天商人で許可を受けた者が九百余名を数えているが、出店しているのはその七分の一足らずの百四十軒前後となっていた(内訳は戦災者六十三%、海外引揚者十五%、復員者十四%、一般その他八%)。昭和二十三年十月現在、露天街となっていたのは棒屋百貨店前を中心とした鍛冶町・田町と板屋町・旭町にまたがる四カ所で、常時営業している者は二百人から三百人となっていた。このころになると、GHQ静岡軍政部のカリソン大尉から市中央部でのやみ市撲滅の指示を受けた浜松市警察署は目抜き通りに陣取っていた露天商に対し速やかな移転を勧告するに至った(『新編史料編五』 七社会史料33)。移転先は都市計画や地元住民との関係でなかなか決まらなかったが、同年十二月の時点では平田(なめだ)町をはじめ、各地に分散していた。ただ、平田町の住民も近い将来立派な商店街をつくるために、平田町からの移転を陳情している(『静岡新聞』昭和二十三年十二月二十七日付)。まとまったやみ市は市内中心部からはなくなったものの、やみ屋はまだ各地で活動していたのである。

図2-52 再建された商店街・鍛冶町大通り

 昭和二十四年三月からのドッジラインの実施などにより、高騰していた物価も落ち着き、経済の復興も軌道に乗ってきた。なお、浜松商店界連盟の発足は二十三年十月、やみ市が市内中心部からなくなっていった時期であった。
 昭和二十四年四月一日には野菜の統制が撤廃された(『新編史料編五』 七社会 史料35)。