終戦直後、衣服は絶対量の不足から衣料切符も用をなさない時期もあった。わずかに下着類などが指定されて町内会などを通じて細々と配給される程度であった。当時の大人の平均的な衣服は、男は国民服や旧軍服、女はもんペであった。昭和二十一年五月のメーデーでは、男子は作業服、女子はもんペをはいて行進に参加している。
しかし、昭和二十一年から始まった原綿の輸入によって、遠州地方の織布工場はようやく息を吹き返し、その年の九月に浜松市は戦災者用にシャツやワンピースなどを、一般用にブラウスの配給を町内会を通して行っている。
昭和二十二年になると、着物を洋服に、もんペをスカートにといった更生服の製作が盛んになり、街にはスカート姿が増えていった。ただ、この年の十月には衣料の切符制が復活し、各家庭では町や村の衣料登録店で配給を受けたり、自由販売品を買うこととなった(『新編史料編五』 七社会 史料28)。
このようななか同じ年に浜松服装研究所(後の笹田学園)の創立者の笹田栄は戦後浜松で初めての「ファッション、ショウ」を昭和二十二年に催している。同研究所の生徒たちが工夫を凝らした作品を仕上げ、自らモデルとなって出演した。なお、戦後初のファッションショーと言われている昭和二十三年五月に東京・神田の共立講堂で開催された全国ファッションショーより早い段階で、浜松のファッションショーが開催されたことになる。
昭和二十三年七月に浜松洋裁教授連盟主催、市商工課と浜松服飾文化協会の後援により、東洋劇場でファッション、ショウ大会を開催した。当時はアメリカの影響を受けて洋裁が大流行し、市内には十五の洋裁学院洋裁学院が出来ていた。ただ、「普段衣も入手困難なセチ辛いこのころよくもこんなに…」という観客の娘のため息が記されているが、新しいアメリカ式の生活へのあこがれがうかがえる(『新編史料編五』 七社会 史料32)。
昭和二十四年には絹繊維、屑繊維の統制が解除され、衣生活もこのころから徐々に豊かになり、都会では次第にもんペが姿を消し、若い女性は流行のロングスカートをはくまでになった。ただ、田舎の女性たちは普段着や農作業時などにはもんペを使用していた。
図2-53 昭和24年当時のファッションショー