[社会運動の再開]

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【社会運動 浜松戦災者同盟 人民大会 浜松人民解放連盟 『建設者』 浜松文化同盟 三木芒 引揚者連絡所】
 昭和二十年(一九四五)十月四日、GHQは日本政府に覚書を送った。それには、政治犯の即時釈放、思想警察その他一切の類似機関の廃止、市民の自由を弾圧する一切の法規の廃止などが記されていた。浜松でも労働運動をはじめ、各種の社会運動が活発に展開されるようになった。これより先の同年九月二十八日には日本社会党結成第一回準備会が開かれ、浜松でも入党の呼び掛けが行われた。同年十月十日には政治犯約三千人が釈放されたが、徳田球一、志賀義雄ら獄中でも不転向組だった日本共産党の幹部が釈放され、同党の機関紙『赤旗』も十月二十日に再刊された。これにより、共産主義運動が再興され、浜松でも共産党系の人々による社会運動が盛んに展開されるようになった。彼らが中心となって同月二十五日に浜松戦災者同盟を結成し、さらにそれを発展させた浜松人民解放準備会が十一月二十三日に浜松駅前で人民大会を開催したが、それへの参加を呼び掛けたビラには次のようなことが記されていた。「一、即時、共同風呂、診療所を設けよ。一、電灯を即時つける様、電灯会社に交渉せよ。一、遊休住宅、大邸宅を即時開放せよ。一、敗戦のドサクサ紛れに隠した物資をハキ出させろ。一、戦災者に公営住宅を即時建築して生活の安定する迄無料で貸付よ。一、義務的最低賃金制の実施(賃金値上げ)。一、戦災者、失業者、戦没者の遺家族の救済。一、自主的労働組合の結成。一、米の配給を三合にせよ。一、官僚的供出絶対反対。一、食糧その他生活必需物資の人民管理。一、戦争犯罪人を即時人民の手で処罰せよ。」この大会の参加者は約二百名と言われている(日本共産党静岡県西部地区委員会『旗を高く掲げて』)。
 昭和二十年十二月五日には浜松人民解放連盟が結成され、同連盟は同人誌の『建設者』を発行したり、人民解放連盟演説会を開催したりした。また、連盟の文化部はマンガ紙芝居による街頭宣伝などを積極的に展開した。この文化部は浜松文化同盟となり、『建設者』の発行を引き継いでいる。二十一年二月十五日発行の『建設者』第三号に工場労働者の三木芒は当時の食糧事情を次のように書いている。「僕たちは今全く物価高に苦しんでいる。農家の諸君だってこの点は同様だと思う。しかし僕たちのは問題が食糧なだけに一層苦しいのだ。賃金値上を要求してもおいそれと簡単に上らず、少しばかり上ったところで焼け石に水だ。そこで、組合を作って大巾な値上げをどうしても斗いとらねばならない。ざっと計算して四人家族で一ケ月計算が次の通りである。甘藷十五貫三〇〇円 野菜一〇貰一五〇円 塩・醤油の補給五〇円米・麦の補給一〇〇円 これでもう六〇〇円、一ケ月賃金二〇〇円足らず。配給だけでは一家餓死しかない。どうしてもこれだけは買出しだ。どうにもならない。仲間で訳の分らないのはこんなことを云う『とても食えないから畑へ行って拾ってくる』」(塚本雄作著「戦後静岡文芸運動史論」『静岡県近代史研究』第七号)。このような深刻な生活苦が各工場の労働者に労働組合結成の大きなうねりを、浜松でも作り出させた。
 なお、浜松市は昭和二十年十二月、浜松駅前に復員者や外地からの引揚者のために引揚者連絡所を設けていた。浜松人民解放連盟は市当局と交渉し、事務所内に同連盟の事務所を置くことを市当局に認めさせている。