【浜松公共職業安定所 日雇い労働者 浜松労働基準監督署】
戦後の浜松地方の労働者の雇用と労働条件の改善に大きな働きをしたのが、浜松公共職業安定所と浜松労働基準監督署であった。
浜松市職業紹介所が開設されたのは大正十一年(一九二二)であったが、昭和十三年(一九三八)になって国営に移管され、浜松職業紹介所となった。これ以後、国民職業指導所、国民勤労動員署と名称を変更、戦後の昭和二十年十月に浜松勤労署となった。昭和二十二年四月に浜松公共職業安定所となり、これまで厚生省の管轄となっていたが、同年九月に労働省の発足により労働省の機関となった。戦災で事務所が全焼し、一時郊外の巡査駐在所や鴨江町の中部配電で仕事をしていたが、昭和二十二年に元の栄町に戻った。一般や学卒者の職業紹介のほか、日雇いの職業紹介もあった。昭和二十年代の半ばは日給が二百四十円であったことから、日雇い労働者は俗称で「にこよん」と呼ばれていた。彼らは朝早くから職業安定所(略称は職安)に向かい、仕事をもらって雇用主のトラックなどに乗って仕事の現場に向かった。そのころ、多くの日雇い労働者は建設や土木関係の仕事に就いていた。
昭和二十二年四月に労働者にとっては画期的な労働基準法が公布された。同法はその適用範囲が広く、内容が膨大、複雑で施行まではかなりの日数を要したが、ほとんどの規定は同年九月一日に施行となった。これにより同法の遵守状況を監督する機関として厚生省に労働基準局が出来たが、九月の労働省設置とともに労働省に移管された。この地方機関として静岡労働基準局が静岡市に置かれ、浜松には浜松労働基準監督署が二十二年九月一日に開設された。当初は栄町の浜松公共職業安定所内に置かれたが、二十四年五月に元魚町に独立庁舎を建設した。管轄区域は浜松市をはじめ、主に天竜川以西(二俣町なども含む)で、労働時間や休息、賃金などに関する事柄や労働衛生、労働安全などの業務を担当した。浜松労基署管内の事業場と労働者数は県内の労基署中最多で、昭和二十年代後半から三十年代初めには佐久間・秋葉の両ダム工事や飯田線の付け替え工事が行われたため、佐久間村や龍山村に分室を設けて対処したほどだった。昭和二十年代の中小企業の経営者の一部には労基法を守らない者もあり、浜松労基署の摘発が幾度となく行われた(『新編史料編五』 七社会 史料75・77・87・92)。